
三橋節子美術館
三橋節子さん、今生きてらっしゃったら60歳を過ぎられた頃でしょうか。三橋節子さんのお話は、小学校高学年の国語の授業で初めて知りました。…授業といっても教科書にあった訳でなく、たぶん当時その話に感動された先生がザラ半紙に刷って小冊子にして配ってくださったのだろうと思います。
大人になってからも時々その話を思い出すのですが、名前もわからないのでずっとそのままにしておりました。10年ほど前に大阪から滋賀に帰ってきた頃、ご主人で日本画家の鈴木靖将さんのプロフィ−ルから、あの話の画家が三橋節子さんであることがわかりました。大津に美術館までできているということでしたので、気にしながらずっと行ける機会を狙っていたのですが、たまたま違う用事で大津へ出かけた時、「三橋節子美術館」の看板が飛び込んできたもので、一人だったし時間もなかったのですが、美術館の方に車を走らせてしまいました。
緑いっぱいの中に静かに建てられた美術館、平日の昼間でしたので訪れてる人も私を含めて3人ほどでした。入り口のロビ−では、三橋節子さんの人生を追ったビデオが流されていました。
展示室の扉を開けて、一歩入った時のあの空気は今でも忘れられません。たぶんあの部屋で、涙した人も多いのではないでしょうか。それほど「絵」が力強く語りかけてきます。三橋節子さんという画家の人生は「悲運の物語」として私などでも知るところとなったわけですが、その物語も確かにすごい話ですが、まずは画家節子さんの「絵」がすごいんだということを改めて感じたような気がしましす。
三橋節子さんは昭和43年、結婚を機に京都からこの美術館のある長等地区に移られ、お子さん2人を育てられながら、地域の自然や歴史、風情を題材にした絵を描かれていたそうです。年表を見てますと、発表された作品に「京都府買い上げ」という文字がたくさん出てきますので、当時すでに認められた画家でらっしゃったのではないでしょうか。
昭和48年、右肩鎖骨腫瘍によって、画家の生命ともいえる利き腕を切断。余命短いことまで知りながらも絵筆を左手に持ちかえ数多くの絵を描き続けられ、2年後の昭和50年、35歳の若さで亡くなられました。
美術館でも画集でも節子さんの言葉というのはほとんど紹介がありません。生前の節子さんをよく知る梅原猛さんの文章の中に、「彼女は、はなはだ寡黙であった。残された絵以外に、自分の人生についても自分の芸術についても、彼女は何も語らなかった」とありますので、たぶん節子さんって絵を描く時も理屈じゃなく、本能のようなもので描かれたのではないかな…と想像しております。だから気持ちがそのまま「絵」に表れ、絵の一枚一枚から、節子さんの心の叫びのようなものが聞こえてくるのかもしれません。
三井の晩鐘
琵琶湖には多くの伝説が語り伝えられている。三井寺の鐘にも。むかし、子供にいじめられていた蛇を助けた若い漁師に、その夜、若く美しい女が訪ねてきた。実は恩返しにと、人間に姿を変えた湖に住む龍王の娘だった。やがて二人は夫婦になり、赤ん坊も生まれた。ところが、龍王の娘であることの秘密が知られ、湖に帰った女は、ひもじい赤ん坊に自分の目玉をくりぬいてなめさせた。盲になった龍女は、子供と夫の無事を知るために、毎夕、三井寺の鐘をついてくれと頼んだという。胸をつく凄惨な話だ。右腕離断後も、なおも迫りくる死の予感の中で、節子は、自分の心象をこの龍女の思いに託して描いたのだろう。左は1973年、右は一年後の1974年に描かれたもの。 三橋節子画集より