トップページに戻る   メール  
一身田寺内町をご案内します
地名の由来 寺内町への変貌 近世の専修寺 藤堂家の寄進
専修寺の再建 寺内町の成立 寺内町とは お七夜 09年
涅槃図 御影堂落慶法要
一身田の歴史と寺内町の成立について
※この項は、津市教育委員会発行「町並み調査報告書」の平松令三氏執筆部分を了解を得て要約したものです
地名の由来
 奈良・平安時代に、高位高官や政治上の功績があった者に対して「田」を与えるという「別勅賜田(べっちょくしでん)」の制度がありました。その身一代に限って与えられた田が「一身田」と呼ばれていました。これが地名の由来ではないかといわれています。

 では、この一身田は誰に与えられたのか。確定的な学説はないのですが、南北朝時代に書写された「神鳳鈔」という記録に、一身田の荘園の部分で「□王殿一身田」という記述があることから、伊勢神宮に仕える皇女「斎王」ではないかと、考えられています(「□」は書写の際に読み取れなかったらしく、字になっていない)。
高田山専修寺(せんじゅじ)
寺内町への変貌
御影堂
 小学校の校庭から弥生時代の壺が出土しており、古くから人が住んでいたようですが、どのように集落が形成され、発展したかの資料は残念ながらありません。ただ諸種の資料から、農耕集落として成立し、伊勢神宮の御厨(みくりや)として、室町幕府直轄の御料所として機能していたようです。

 そんな一身田が大きく変貌するのが、専修寺の建設です。親鸞上人建立と言われる栃木県二宮町高田の専修寺(せんじゅじ)、第10代目の法主・真慧(しんね)上人が一身田に道場を建てたのが専修寺の始まりで、無量寿院と呼ばれていました。これが1480年前後のことで、以後、一身田は寺内町として変貌していきます。
近世の専修寺(せんじゅじ)
 真慧上人が建立した専修寺は、天正8年(1580年)4月5日に炎上し、同16年に再建されました。ところが、正保2年(1645年)正月23日の夜、一身田村の大火により、再び焼失してしまいました。

 再建にあたっては様々な問題があって相当苦労したようです。しかし第十四世堯朝上人の夫人、高松院(藤堂高虎の長女)が、実兄である津藩主藤堂高次に働きかけ、津藩の絶大な援助を取りつける事に成功しました。津藩としては、慶長5年、富田信濃守信高が城主の時に城が包囲され、専修寺の仲裁で一命を取りとめた恩義があったようです。
如来堂
藤堂家の寄進
山門
 藤堂高虎の長女高松院が、二度目の大火(1645年)により焼失した専修寺の再建に尽力したことは記述した通りですが、藤堂家は続いて二代目藩主高次の四女、糸姫を第16世住持堯円の内室に婚家させました。同時に専修寺の西に隣接する窪田村の土地百85石余を寄進しました。

 これによって専修寺の境内地と一身田の町並は西に大きく拡大することになり、再建の伽藍も従来の東向きから、一転して南向きに建設されることになりました。これはそれまで伽藍のすぐ東側を通っていた参宮道が、伽藍の南側を通るようになった、という道路事情も影響したようです。
専修寺の再建
 1580年、1645年と二度にわたる大火のあと、藤堂家の尽力を得て、1666年に現在の巨大な御影堂が新寄進地に再建されました。これによって専修寺は従来の東向きから、南向きに大きく変わりました。さらに1704年、御影堂の前に二重二階門という高い格式を持ち、全国でも有数の規模を誇る山門が建造されました。

 しかし1721年に如来堂の建築が始まった頃には津藩の財政が悪化し、御影堂の時のような援助は望めませんでした。しかし高田派門徒こぞっての募財により、27年の工期を経て1748年、ようやく如来堂が完成しました。
唐門
寺内町の成立
 寺内町成立の資料は残っていませんが、一御田神社の1592年の屋根葺き替え棟札には「天正廿年壬辰八月十一日上ふき 神戸孫右右衛門尉きもいり 寺内地下勧進ニ入」とあり、この時までに寺内町は成立していたようです。

 「地下(じげ)」とは「寺外」とも音通であることから、寺内の外側という意味で使われていたようです。ただし専修寺の使用人が増えて作られた「北町」のように新たに外側に環濠が作られ、寺内に編入された所もあれば、津藩住民が居住した二百石町(今の南町)のように環濠内でも「地下」とされた所もあり、現在の感覚とは違っています。
石畳と釘抜き門、石橋
鐘楼
御廟唐門と透塀
唐門そばの水屋
雪の唐門
境内を飾る蓮
一身田寺内町とはどういうものか
 寺内町とは、室町・戦国時代、一定地域を濠や土塁で囲い、その内部に寺、民家、商家が発展した集落で、主に浄土真宗などの仏教寺院・道場(御坊)を中心に形成されました。門前町の一種と見る学説もありますが、自治集落としての性格、あるいは防御的な性格もあり、門前町とは違うのではないかと、私は理解しています。

 全国にはたくさんの寺内町がありますが、一身田寺内町の場合、環濠が今も周囲を巡り、西側には土塁も残っており、外部との遮断が明確な形で残っている点では、全国でも最も良好に保全された寺内町と評価されています。その環濠は古い資料によれば、東は2間半(4.5メートル)、北と南は3間(5.4メートル)の堀幅と記録されています(西の堀幅は未記入)。しかし後世にいたって一部埋められたようで、南側だけが当時の幅で残され、ほかは1間前後と言う所です。

 寺内町はほぼ長方形で、東西約500メートル、南北450メートル、面積にして約20.2ヘクタールに及び、その内、東西368メートル、南北246メートル、面積約8.7ヘクタールを専修寺が占めています。

 専修寺は、全国的な知名度は分かりませんが、浄土真宗に10派ある中の1派で、高田派の総本山です。元は栃木県二宮町高田(二宮尊徳で有名)の専修寺を本山としていたのですが、兵火によって焼失したり、11代目を巡って真慧の実子と養子の間で教団を2分する対立抗争があったりして、やがて一身田の専修寺が高田派の本山となりました。

 一時は浄土真宗最大の教団として隆盛を誇りましたが、のちに仏光寺派が台頭し、さらに本願寺が台頭し、今は末寺600ほどの規模になっていますが、信徒との結びつきは強く、また、今に残る親鸞上人の真筆の内、東西本願寺よりも遙かに多い約4割を専修寺が所有しています。従って、国宝・重要文化財もたくさんあります。

 境内の面積としては三重県最大の寺院で、建物も、御影堂は本願寺大師堂、知恩院本堂に次ぐ全国第3位の大きさを誇り、山門も大きさでは全国第9位ですが、5間(柱の間が5つ)3戸(扉が3つ)という最上級の格式で建築されています。

 この専修寺が商工業者に「御拝受銀」という事業資金(年利12%)を貸し付けるなど、強力なイニシャティブを発揮して寺内町の形成・発展を主導してきました。今も専修寺に商品を納めている町内のお店には、「高田本山御用達」の金看板が掲げられています。

 戦前は、時代劇のロケ地として使われることも多く、有名な所では「無法松の一生」が専修寺の太鼓門付近で撮影されました。

 一身田寺内町については「一身田寺内町」というサイトがありますので、詳細はそちらをご覧下さい。
 一身田寺内町には、寺町通り(専修寺前のバス通り)の高田幼稚園の斜め前に、「寺内町の館」があります。ここには休憩スペースがあるほか、寺内町の古地図や古文書、模型など、寺内町に関する資料も展示してあります。事前に電話(059−233−6666)で予約しておくと、「ほっとガイド」のみなさんが、日程に応じてガイドをしてくれます。入館もガイドも無料です。月曜日はお休みですが、月曜が祝日の場合は翌日が休館となります。

 「ほっとガイド」の詳細についてはこちらをクリックして下さい
    主な見所はこちらをクリックして下さい

 浄土真宗高田派本山 専修寺 公式サイト     浄土真宗高田派本寺 専修寺 (栃木県二宮町)
2009年1月 お七夜さん
 9日から「お七夜」さんが始まりました。今年は10日が土曜日のため出足が早く、既に露店も出そろっています。下の写真は10日の10時頃のものです。(念のために「お七夜」さんとは、浄土真宗の開祖、親鸞上人の命日の前、一週間にわたって行われる法要のことで、寺内町には露店が立ち並び、普段の姿からは考えられない賑わいを見せます。)

 早くもカレー焼きには行列ができていましたし、植木屋さん、茶碗屋さんを覗き込んでいる人もたくさんいらっしゃいました。仲ノ町の通り(商店街)には干物を売る店やフリーマーケットの店もあり、ここ数年では店の数が一番多いのではないでしょうか。伊賀の物産などを扱っている青少年会館のホールも賑わっていました。

 11日は成人式で、振り袖姿の新成人の皆さんもいらっしゃるでしょうから、一段と華やかになると思います。12日も成人の日で休日ですから、人出が期待できます。専修寺では連日お勤めもあり、法話も聞けます。

 是非、一身田のお七夜さんにいらして下さい。公共交通機関をご利用いただくのがベストですが、自動車の場合は、高田本山駐車場、あるいは人権センターなどが利用できます。
恒例の植木屋さん 慈智院前
もちろん茶碗屋さんも
露店も出そろいました
名物「桜おこし」です
お饅頭もあります
名物「おたやん飴」
修復された専修寺の涅槃図
 09年3月13〜15日にかけて恒例の涅槃図の公開が行われました。随分傷んでいましたので、三重県の表具師組合に依頼して修復、完成後、初めての涅槃会です縦7b近い、県下最大の涅槃図です。大きさは下の写真で分かります

 今回の修復の過程で、円山応挙派1781年の作品と判明しました。一番弟子、長沢盧雪(ろせつ)の可能性が高いそうです。写真では分かりませんが、バッタや蟻 ムカデなども描かれ、左の沙羅の樹上には蜘蛛の巣まで描かれています。また、イタチが花をくわえていたり、牛が笹をくわえていたり、熊が右手で目をこすりながら泣いていたりと、相当に細かい描写がされています。

 毎年 この時期に公開されていますので来年も見られます。表具師大会が秋に津市で行われます。その時も専修寺で公開されます
御影堂落成慶讃大法会
 山門の改修から始まり、専修寺はここ10数年に亘って諸施設の改修を行っています。御影堂(東御堂)の大修理も終わり、現在は太鼓門と唐門の修復を行っています。今後、さらに御廟の改修なども予定されていますが、御影堂の大修理が完了したことを祝い、2010(平成22)年5月13日(木)から17日(月)まで落成慶讃のお勤めが行われます。

 法要の他にも、前夜祭として12日には花火や柳家小三治一門の落語があり、13日以降、岡田卓也(岡田文化財団)氏や養老孟司氏、五木寛之氏などの講演、琵琶の上原まりさん、雅楽の東儀秀樹さん、笛の藤舎名生さんなどの演奏が行われる予定です。ただし目下調整中ですので、出演者は変更の場合もあります。

 以上はすべて専修寺で行われるのですが、お寺の外では、寺内町観光振興懇話会が中心になって、15日から16日まで「昭和レトロ ホッとするに一身田」のイベントを開催します。骨董店を中心に様々なお店が建ち並ぶことになります。また大法会の期間中は、お七夜のように食べ物を中心にした露店もたくさん出店されます。

 なお期間中、一身田の中心部は全面的に通行止めとなりますので、自動車でお越しの場合は周辺に用意される駐車場を利用していただくことになります。
トップページに戻る
〒514−0114 津市一身田町2790 Tel.Fax 059−211−0126
メール hpvqg2qv@zc.ztv.ne.jp