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シャックへようこそ その2
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History of JA2PH


津工業高校電気通信科1年生のときにSWL始まる。
- 1953 -

無線従事者の免許は高校2年生でした....
- 1954 -


開局当時のカードとシャック。
ファイナルは修学旅行・秋葉原で買った2E26でアンテナは10m垂直。
予備免許が昭和30年3月。部品そろわず送信機がまだ。
落成延期届けを2回。やっと8月に開局できました。
初めての交信相手はJA2QS,稲垣さん。
- 1955 -

卒業後、ラジオ三重(JOXR)に入社で初任給5,700円。
うれしかった。
これでハマーランドのスーパープロが買える。
買えた。
毎日弁当を持って...給料すべてをつぎ込んで念願かなう。
でもかなり程度悪し。
それでも、月給でほしい物が買えた満足。
- 1957 -

2台目のスーパープロ。ちらかし名人はこのころから....
あまり飛ばない2E26、エミゲンでした。
定番の807でよく飛ぶようになり、アンテナもロングワイヤー。
このころ2アマに28メガ解放。
屋根の上のFDでWとQSO。初めてのオーバーシー。
- 1959 -

昭和35年会社も東海ラジオ放送となり、愛知県稲沢市のアパートへ。
6畳1間に友達と同居では狭すぎる。
Sプロを手放してトリオ9R42JとジェレクトロQRP-60とディスクトップ。
トリオさんに悪いが、受信の悪さにびっくり....
Sプロを当たり前(標準)と思っていた誤算。ほとんどQRT。
- 1960 -

昭和40年に現在の住居、榊原にもどり、受信機をスターSR-600に替え
トリオのVFOを加えてハム復活。 QRP-90のキャリコン(A3)によるDXが始まる.....
しかし
それも1〜2年。
相手の声が「もがもが」に聞こえ相手なし。SSB時代に突入。
で、DXはCWでカントリー稼ぎが始まった。
- 1965 -

やっとの思いでヒースキットのSSB送信機HX-20の中古をアメリカから購入。
FONEでのDXを再開。
- 1966 -

次は新品のヒースキット。HW-100トランシーバを組み立てQRV。
トランシーバの使い勝手の良さ、DXも楽しくなる。
- 1969 -

屋根に14のクァッドが上がる。飛び良し。
マストは50mm径の定尺2本。
- 1969 -

さらに3バンドの3エレ、モズレーに変わる。
飛びはいまいち。
- 1971 -

ヤエスのFL-2100とトリオのJR-599が加わる。
力不足とスピリット運用のため。
リニアは500W入力、A3aでは100W出力となる。当時のA3aはプレート効率20%。
- 1972 -

そして念願のタワー....地上高21メートル。
我が家のシンボルとなる。
- 1972 -

The Short Wave Magagine(Feb.1974)にJAのDXerとして掲載された。
DX News SheetのEditor、GEOFF氏が提供したもの。
- 1974 -

友あり 遠方より来たり

タワーにハイゲインの14フルサイズ4エレが乗った。
さすがモノバンダーはすごい。
キャリビアンシーやペディションもまずまずいける。
- 1974 -

ヒースキットからヤエスへ、世界のワンノーワン。文句なしに飛びがよくなった。
FT-101は本当によく飛んだ。
それと受信機にコリンズの75S1が並んだ。
開局後間もなくQST誌の広告で知ったSライン、高嶺の花だった。
この写真は全特誌s51年12月号会員のプロフィールに載った。
- 1976 -

32S1の参加で
とうとう夢だったコリンズSラインの完成。目出度しめでたし。
でも、このころから仕事の関係でQRTの道をたどる。
- 1977 -

憧れだったDXCCにいろんな思い出が詰まっている。
ークリックで大きくなりますー

電波が出なくなると昔を思い出す。
1962のFDコンテスト。御在所移動のときのスナップ。

インターネットでは味わえないハムの楽しさ。
そのうちに...また。

CU AGN 73 de JA2PH



あれから40年、浦島太郎がマイク握る。
夢のような受信力、コリンズも過去のRigとなりました。
8m Highの逆Vと、昔お世話になったヤエスさんで7メガQRV。

ハローシーキュー de パパーホテル・・・