楽しきかなラジオ作り  
=復活= 楽しきかなラジオ作り
著者:昔ラジオ少年

 終戦を告げる玉音放送を並四というラジオで聴いた。
 戦後のラジオの普及は、家庭に入ってきた電気製品の中では比較的に早く、歌謡番組や「君の名は」などのラジオドラマで、長い夜を楽しませてくれるようになった。
 電話ならまだわかるが、放送局からうんと離れたところまで、電線も引かず音が聞こえる。不思議でならない。小学6年生のころと記憶している。
 作りたい。作ってみたい。
 町の本屋さんで「初歩のラジオ」という月刊誌を買って読むと作れそうだ。親にせがむ。何度もせがむが答は同じ「中学になったら」だった。中学が待ち遠しい。

*   

 中学になったら文字通りのラジオ少年になってしまった。
 ラジオをもっと知りたくて工業高校へ入り、無線に興味を持ちアマチュア無線を始めてしまった。
 まだ日本では、無線機は商品化されていない。作るしかない。受信機と送信機、ラジオよりかなり複雑だ。
 時は流れ、アマチュア無線も通信方式が変わって、もっともっと複雑な無線機が必要になってきた。
 アメリカの無線機キットメーカーにいいのがある。そのキットを買おう。1ドル360円の時代で生活も苦しかったが、道楽は止められず買ってしまった。
 ここまで複雑になると配線図を見ながら作れるものではない。何十というステップに分けて、実体図通りに部品を付けたり配線をしていく。半田付けが出来れば時間が解決するようなもので、思ったより楽に完成した。
 自分で作った無線機で世界のアマチュア無線仲間と交信する、これが道楽冥利だろうと思う。
*   

 それから35年。気変りも激しく、昔よく聴いていたジャズやクラシックを、年甲斐もなく大きなスピーカーなどを鳴らして、酔いしれている。昔の郷愁もあり、真空管のアンプで聴きたい気持ちがだんだん高まってきた。
 昔のように少しずつ小遣いをためて真空管アンプのキットを買ってしまった。作れるかな?と、キット一式を広げてみると、部品は全部取り付けられており、真空管まで刺さっている。ビニール線を4〜50ヶ所ハンダ付けするだけのものだった。心配を通り越してがっかりもした。
 だが作業を始めると、目が見えない。ハンダを付ける箇所にコテ先が届いているか、しっかりとハンダが付いたかが確認できない。付けるときは勘、確認は老眼鏡プラス虫眼鏡で見る始末で、作り上げたときは、体がコチコチになっていた。
 でもいいものだ。自分の作ったアンプで好きな音楽を聴く。私にとって、最高にいい音で鳴っている。