Kさんと
Kさんは今、ほとんど目が見えない。
でも楽しい毎日を過ごしていると、明るい声で電話がかかってくる。
Kさんとは昭和19年に国民学校へ一緒に入学した。
学校に入る前、親からKさんのことは聞いていた。
「Kさんは、もう自分の名前が書けるんやて」
すごいな、と思った。
学校でもKさんはよく勉強が出来た。
目がくりっとした可愛いKさんだった。
特に仲良しというのではなかったが、身近だった。
話はそれるが、この仲って曲者なんだ。
特に好きと言うことではなかったが、身近な話し相手の女性がいた。
もう会えない、そんな状態になったとき「必要」だとわかった。
難関を乗り越え、結局40年余り生活を共にしている。
Kさんとは同じ関係ではないが、空気のような関係かなと思う。
小学校のときだったか、Kさんと高校の運動会を見に行ったことがある。
ラジオ少年だった私は、興味があり放送設備の近くで見ていた。
忙しそうな運動会スタッフは放送の近くを動き回っていた。
音楽がぱたっと止まった。
レコードは回っている。
アンプの後ろをちらっと見るとケーブルが抜けている。
あれだ。と思ったけど・・・直さなかった。
小学生が触っている。故障の原因は小学生だ。
こんな判断をされるのは明白だったので、知らんふりをしてその場を去った。
Kさんは覚えているかどうか知らないが、運動会の放送に出くわすと思い出し、Kさんが浮かんでくる。
高校への進学は当然Kさんは名門津高。
私はラジオのことを勉強したくて、電気通信科のある津工業。
Kさんはエスペラント語を勉強しているという。
Kさんは近い将来、世界中がエスペラント語を使うようになる。
すごいな、と思った。
世界が一つの言語になれば通訳も要らないし、世界中誰とでも話ができる。
それからKさんは東京の大学へ、私は地元の放送局に就職した。
ちょうどタバコを覚えた頃だったから20歳過ぎだったのだろう。
私は東京へ1週間の研修に参加することが出来た。
そのときKさんは杉並で下宿をされていた。
荻窪だったろうか、普通の家の一室で、きびしそうな生活の一角を見た。
でもKさんのくりくり目はいつも明るい。
で、Kさんは高校の先生になった。
我々から見ると夢のようだが、自分が教えた生徒と一緒になった。
学校生活3年の奥さんに、一生共通の話題は尽きないだろう。
Kさんが定年を迎える少し前に同窓会があった。
Kさんは、退職したらRV車を買って世界を走りたい。
くりくり目は輝いていた。
それから随分経つが、Kさんの夢は叶えられずに至っている。
でもKさんの陰のない声で、こちらも元気になる。
Kさんは不思議なパワーを放つのだろうか。
(2008.11.10)
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