*****************************
放送局の想ひ出
*****************************
三重県唯一の放送局、ラジオ三重(RMC)。
所属は技術部。社屋は津市島崎町にあった。
この写真は学生アルバイトならず、れっきとした正社員。
夏の衣替えまで学生服のまま。当時は珍しくなかった。
- 1956 -
左は1kw送信機。500wで運用していた。
右は上野放送所(JOXO)の100w送信機。プロ用は大きいね。
「三人よれば」というクイズ番組、四日市のオカダヤ提供でした。
このような公開録音は県内各地へよく出かけました。
アコーデオンは あべ静江さんのお父さんですね。懐かしい...
主なベリカードです。
〜クリックして下さい〜
近畿東海放送
JOXR
社名変更、三重会館に移転。
- 1956 秋 -
津市の中心にシンボル的なビルが建った。それは三重会館だった。
5階建てで、一部6階部分があった。(写真の屋上右端)
近畿東海放送(KTB)はその5階一部と6階だった。
この交差点に信号が取り付けられたが、あまり信号を守る歩行者はいなかった。
新しいスタジオは5階。この写真は主調整室。
ここは直接番組を送出するところで、ニュースを読んでいるのは4スタ。
レコード番組「ポストメロディ」などもここから。
主にここが私の仕事場でした。
放送には欠かせなかったテープレコーダー。
テープに録音された番組やCMなどはここから流します。
ここは主に録音を担当する副調整室。
中身は主調整室と同じ。
「朝の童謡」の録音風景。
第1スタジオです。
=伊勢湾台風の爪痕=
昭和34年9月の台風で送信所は水浸し
夜中に肩まで水につかりアンテナのボウルギャップを外し
やっとオンエヤしたとは矢田さん撮影の写真と思い出。
JOXR 860Kcは翌年3月末をもってJOSF 1330Kcになりました。
東海ラジオ放送
JOSF
ラジオ東海(岐阜市)と合併、新会社となる。
- 1960 -
名古屋に社屋完成まで岐阜のスタジオを使用。
水道山の中腹、ロマンスリフト乗り場の近くでした。
主調整室(マスター)にはミキサー、プロデューサーの他
スタジオ・プロデューサーが付いた。
ここから愛知県七宝町の送信所へSTリンクで送っていた。
録音スタジオの副調整室(サブ)。
今だったらもてはやされるだろう、女子アナの面々。
ボクの写真も1枚入れとこぅ。
第6回ミキサー研修会
- 1960.10 -
日本民間放送連盟の研修に参加
参加社41社、参加人員65名。講義と実技の7日間。
写真はJOKRラジオ東京(現在のTBS)で邦楽録音の実習。
実習科目によってスタジオが変わり、見学も兼ねられた。
これはJOQR文化放送の調整室。ライティングがうらやましかった。
研修はボクにとって新鮮であり、その後の仕事の自信となった。
CBCと合同で初のステレオ実験放送
スタジオはCBCを使用
名古屋の民放ラジオ社2局で音を右と左に分けて放送するものです。
今では馬鹿げていますが、当時は真剣でした。
写真左はステレオ放送に使ったレコードプレヤー。
右はアナウンステーブルにCBCのマイクと東海ラジオのマイクがセットされた。
いよいよ社屋も完成
- 1961 -
名古屋市中区東新町(現東桜)の東海テレビ5階6階がラジオとなった。
6階の主調整室(マスター)がボクの定住地。
写真記録がないけど、移転記念や周年記念のでは愛知県文化会館などで公開録音もあったし
特に毎週、栄のジャズコーナーや名駅前のラテンクォーターでのライブ録音が楽しかった。
ジャズが好き、だからジャズのレコーディングは楽しい。ホールでの録音はかっこいいけど
やっぱりジャズは狭いお店でのコンボ演奏が好きだったなぁ。
この写真が音屋の最後の一枚となりました。
- 1962 -
放送の仕事 -終わり-