● エッセイ ●
たかされ(6)

 丸善石油下津製油所での野球は、昭和44年の入社から昭和56年までの13年間であった。 なぜならば石油製品の需要構造の変化による会社の経営難から、下津は潤滑油の調合装置のみ 残して操業を停止せざるを得ない状況となったのである。昭和57年9月2日の朝から、主要装置が 次々と火を消していった。と同時に、千葉製油所や堺製油所への100人単位の人事異動が毎月の ように行われた。クラブ活動も、総てのチームが定員を欠いて消滅し、ハンドボールがあと一人 でゲーム可能な7名になるというので助っ人で入部し、広島に転勤する昭和59年まで在籍したが、 いきなりエースアタッカーを任されて、練習やゲームをするうちに肩を痛めた。
 振り返れば長かったようで短い13年間に、国体で5回、天皇賜杯で8回、常陸宮賜杯で7回の 全国大会出場を果たした。会場も北は北海道の網走市から南は鹿児島県指宿市まで、全国に及んだ。 会期も勝ち続ければ10日ほどになり、25名のチームが滞在する費用は相当な金額にのぼった。 選手が抜けた職場では補勤に次ぐ補勤が行われた。また試合のない日や雨の日には各地の名所観光 などの粋な計らいもあった。全くもって今思うに、なんと恵まれた環境であったことか。お酒好きの 私はさらに、各地の居酒屋での地酒の一杯が楽しみであった。翌日の試合で、酒の匂いをプンプン させてバッターボックスへ立つことも、一度や二度ではなかった。酒しぶきを両手に吹き付けると、 バットの震えがピタリと止まるあぶさんを気取っていたのだ。
 これら3つの全国大会の戦績では昭和46年の和歌山国体での優勝、天皇賜杯では昭和54年の第34回 大会(栃木県)でのベスト4、そして常陸宮賜杯では昭和52年の第13回大会(滋賀県)での優勝がある。
 常陸宮賜杯は、それまでベスト8に2度進出していたが、前年は県予選で敗退していた。この大会も 緒戦から敗色濃厚だった。松久(岐阜)に5回まで5対1とリードされていたのだ。ところが6回表の 攻撃で四球絡みにベンチから相手ピッチャーをやじり倒して塁を埋めた後、代打で出た私のライト オーバーのタイムリーで3点を返し1点差、さらに8回表に同点に追いつき延長戦へと突入。じりじりと 緊張が続く中、16回表に3点をもぎ取って8対5で勝ったのだった。
 緒戦で開き直ったのか、その後は快進撃だった。2回戦は日鉱水島(岡山)を2対0、3回戦は長崎親和 銀行に4対1、準々決勝で北見市役所(北海道)を5対1で下し準決勝へ。
 準決勝は大分銀行を2対0で完封。いよいよ決勝戦は過去何度か対戦して苦汁を飲まされている三洋電機 洲本(兵庫)との対戦となった。このチームは小兵だが足の速いのが多く、内野守備でも気を遣った。 7回まで3対1で丸善がリードしていた。8回表の三洋電機の攻撃で、一死2塁、3塁でスクイズをしかけて きた。バントは3塁前へ転がり、捕った3塁手は本塁をあきらめ一塁の私に送球してきた。その時、2塁走者が3塁を 大きく回っているのが目に入り、急いで本塁へ転送し、本塁寸前タッチアウトで1点に止めたのだった。 本塁への送球が少しでもそれたり、2塁走者が目に入らなかったら確実に2点スクイズの成功だった。  これで勝ったと思った。9回表の相手の攻撃を封じて、和歌山国体以来の日本一になった瞬間だった。
 昭和40年に始まった常陸宮賜杯はこの第13回大会が最後になった。理由は準硬式といえどもバットや ヘルメットなどの防具、球場施設など硬式と同じものが必要であり、練習会場の手配なども大変である とのことであった。この記念すべき大会に優勝旗を手にできた幸せはいくつもの「たかされ」のひとつの 集大成と思っている。 常陸宮杯優勝
ずっしりと重たい優勝旗(昭和52年)

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