● エッセイ ●
たかされ(7)

 生まれ育った和歌山を離れて初めての転勤先が広島であった。父母がこよなく可愛がった2歳の長女と 1歳の長男を連れて、妻とともに和歌山を後にした。昭和59年7月の丸善石油中国支店は、原爆ドームと 道を挟んで向かい合った真っ黒な商工会議所ビルにあった。5階だったと思うが、会議室の窓から、隣に あった広島市民球場のナイターが見えた。球場の近くで山本浩二を見たり、流川の飲み屋で高橋慶彦と 出会ったり、“がたい”がいいので酔客に「お前、長内(おさない)じゃろ」とカープの選手と間違われ たりもした。当時の主力選手と間違われて、悪い気はしなかったが。
 転勤して2年後の昭和61年4月に大協石油と合併してコスモ石油広島支店となった。支店の場所も 八丁堀の新しい日生みどりビルの10階となった。このオフィスビルの選択もレイアウトも主に私が 関わった。
 少しでも早く両社の社員が親しくなるようにと当時の支店長同士が相談して合併前の1月に入居した。 同じフロアに丸善と大協がそれぞれに机を並べた。つまりは総務課が二つあるわけで、わずか3カ月の ために支店長室や応接室なども二個ずつ作らねばならず、ぶつぶつ文句を言いながらレイアウトした ことを思い出す。
 また両社にそれぞれ野球部があって、合併前に親睦試合をしたことがあった。丸善には松山のノンプロ 経験者も何名かいて重厚なチームだったが、大協は、若い、野球が好きな人たちの集まりだった。 野球部も合併し「コスモ」のユニフォームを会社に出入りしていたコバスポーツで作った。当時のカープ 古葉毅識監督のお兄さんが営んでいる店だった。
 しばらくして終業後に広島市民球場を借りて、特約店の新出光チームと親善試合をすることになった。 何でも屋の総務だから、球場の使用手続きももちろん自分で行った。試合では私がピッチャーで4番、 キャッチャーは下津時代の監督であったI氏であった。サードには松山市代表で出場した都市対抗野球で ベストナインに選ばれたこともあるK氏がいた。下津時代のハンドボールで肩を痛めていたが、軽く投げ たら案外球が走って、大きなカーブを決め球に平均年齢で10歳以上も下回る相手からバタバタと三振が 取れ快勝した。ネット裏には会社の連中が大勢応援に駆けつけ、総務課長のN氏や計画課長のI氏らが 、酔った勢いでやんやの声援をしてくれたのだった。 広島市民球場
広島市民球場で投げる

topボタンの画像
[メニューへ]