● エッセイ ●
たかされ(9)

 3年間の札幌の勤務を終え千葉に来たのは平成5年(1993)の夏だった。子供たちは長女が小5、 長男が小4、双子が小2になっていた。稲毛の社宅に入居してすぐに、男の子たちが近所の公園で 練習している小中台ウイングスという少年野球を見学に行った。私は所用で家にいなかったが、 帰ったら妻が「3人とも入るって」と言う。自分はうんざりするほど野球をしてきたので子供たち には強制する気はさらさらなかったが蛙の子は蛙か。それなら、できる限り応援してやろうと思った。
 ウイングスには6年生、5年4年、3年以下の教育チームの3つのグループがあった。監督のほか にそれぞれにコーチがいて、その中にコスモの社員であるAとKがいた。コスモの社宅にも何人かの チームメイトがいた。
長男
長男・徹
 それからの休日は夫婦で追っかけの日が始まった。特に双子がレギュラーになると、チーム全員を 買ったばかりのボンゴフレンディーに乗せて試合会場へ送迎した。試合途中で雨になった日などは 試合が終わって泥んこの子供らに、スパイクを脱がせて大きな箱にまとめて入れ「汚い手であちこち 触るなよ!」と一喝して乗せた。
次男
次男・剛
 双子のポジションはキャッチャーとセンターだった。打撃も一巡で2回楽しめたので他の親から 「一粒で二度おいしいなあ」とうらやましがられた。 センターの三男は左だが肩が強かったので、よくセンター前のゴロをダッシュして取って一塁に 投げてアウトにした。応援の親たちは「おおー」と声を挙げて喜び、何度も胸の透く思いをした。
 3人とも中学では、やはり野球部に入った。中学生の頃のゲームはあまり知らない。やがて3人とも に千葉県下の別々の高校球児となって再び夫婦の追っかけが始まった。長男は千葉北でセンターで4番を 打ち、次男は部員が90人の拓大紅陵で厳しい練習に耐えて3年の春にベンチ入りし、三男は京葉工業 のエースとなって、それぞれ楽しませてくれた。私は千葉北と京葉工業で選手会の父母会長を務め、 拓大紅陵でも三役のひとつを務めた。
三男
三男・将

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