● エッセイ ●
たかされ(10)

 子供たちもさることながら、私も会社で和歌山出身の先輩に「コスモの野球部に入ったらええわい しょ」と勧められて入部し、42歳で久しぶりの野球との出会いとなった。コスモ石油本社野球部には、 元丸善石油松山のノンプロ経験者が何名かいた。
 ウイングスのコーチをしていた勝浦高出身のAはコスモの主戦投手、同い年で今では百年の知己と なった監督のTは宮崎商出身、Fは昭和44年夏の松山商と三沢との高校球史に残る延長18回の0行進の 末、再試合で優勝した松山商のセカンドだった。昭和53年春の甲子園準優勝投手、福井商出身のI、 銚子商業から明学のI(元N)たちである。
 お互い初対面であったが、野球上がりはすぐに打ち解けて楽しい思い出作りが始まった。参加する 試合は、毎年春と秋に行われる「オイルメン大会」と、三和銀行グループ会社が参加する「みどり会 野球大会」が主なものだった。
 オイルメンは当初、日石、三菱、出光、ゼネラル、昭和シェル、東燃、キグナス、丸善石化、コスモ とバリエーションも豊富だったが、業界再編の嵐が吹き荒れてチーム数もチーム名も徐々に減少し、 最近は半数以上が新日石(7月からJX)グループのチームとなってしまった。しかしこの試合で優勝 すると白龍旗争奪実業団野球大会に石油業代表として東京ドームで試合ができるのだ。そして私は、 平成7年、11年、15年と3回出場の機会を得た。いわゆる産業別野球大会の軟式版で各チームともに それぞれの業界で優勝して来ているので強豪だった。おまけに、こちらは明らかに平均年齢で10年は 上回っており、過去の栄光の惰性と老獪さで勝ち抜いてきたチームだけに1勝するのは至難の技だった。
  名前
電光掲示板に名前が
 それでも東京ドームの人工芝に寝転んでウォーミングアップをしたり、センター後方の電光掲示板に 、巨人の松井の次の場所に自分の名前が表示されることなど夢のようなことが実現した。
 また、みどり会の大会は毎年埼玉県三郷市の河川敷グランドで行われたが平成15年(2003年)には 参加52チームの決勝でサントリーに敗れたが準優勝したのが最高の成績であった。永年続いたこの 大会も三菱東京UFJとなってしばらくして消滅してしまった。
 コスモ本社野球部入部への声を掛けてくれた先輩、ともに戦ったチームメイトのおかげで40代半ば から50代にかけての自分史の宝石箱に入れておきたいような思い出となった。 行進
東京ドームで行進するコスモチーム

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