定年退職
   
昭和30年創設の玉豊稲荷神社
高田機工に譲渡した桟橋
ベースオイル受入桟橋から南方向
いつも魚影が濃い
ベースオイルタンク
6年間歩いた散歩道
最後の雄姿

 今日は2010年11月1日。第二の人生の初日だ。今7時20分。いつもなら出勤の時間だが こうしてパソコンの前に座って書いている。とても穏やかな気分だ。
 29日に会社の送別会でいただいた大きな花束が、玄関の下駄箱の上に花瓶に入れられて 自由への門出を祝ってくれている。 弟から届いた深紫のバラの花束には「長年お疲れさま」のコメントが添えられて、ダイニングの 自作テーブルの上に飾られている。
   思えば41年7ヶ月の会社生活であった。18歳で丸善石油下津製油所に入社したのは昭和44年の 3月であった。男子は全員丸坊主で来るようにとのお達しで、私は高校球児であったので 何でもなかったが、それまで長髪の者には多少反発があっただろう。初出勤の日に、当時の南門に いる守衛から「お前が耐久でピッチャーやってた者か?」と問われ「はい、そうです」と答えた ことを覚えている。当時、採用の決定は高校3年の6月には行われていて、7月の夏の高校野球 選手権大会の和歌山県予選は“来年当社に入社してくる者”として、野球に興味のある先輩社員は 見てくれていたようだ。
 製造二課BK係に配属され交代制勤務を経験した。潤滑油の原料油から蝋分を除去する装置で 原料油を希釈する溶剤にベンゾールとケトン(MEK)が使われていたのでBK装置と呼ばれた。 ここでの勤務は二年に一回ほどの定期整備を除いては1、2、3、4の繰り返しで、1は朝から 夕方までの勤務、2、3は夕方から翌朝までの勤務、4は休日であった。
 お盆も正月も同じ調子で、夏の花火大会に湯浅駅に降りる観客とすれ違いに夜勤に向かう列車に 乗ったり、大晦日の夜勤も再三あり、少なからず惨めな気持ちになったこともあった。
 野球部の練習は1を除いて、2の夜勤に入る前、3の夜勤明け、4の日に、午後3時ごろから 行われた。まったく自由にならない日々で、クラブ活動をしていない先輩社員が羨ましく、何年か たったある日、野球部の先輩に「いつまで、こんなことせなあかんのやろ」と聞いたことがあった。 その先輩は「いつまでせなあかんやなくて、いつまでできるかやぞ」と答えた。この答えを実感 する時代が、十数年後に体力的なことや会社の盛衰でやがて訪れる。
 7年後に勤労課に異動になった。いままでは機械装置が相手だったが、ここでは人が相手だ。その後の 自身のノーハウを培う原点になった8年間であった。
 その後、転勤族の仲間入りをし、広島、札幌、東京と21年間を過ごした。何よりも幸いだったのは この21年間、ずっと家族が一緒だったことだ。何年間も人事の仕事をしてきて、単身赴任を せざるを得ない多くの人たちには申し訳ない思いであった。
 最後に、社会人スタートの地に戻り、6年間を過ごした。初めの3年間はMSKという会社の 清算にあたり、難問題克服に精神的にも苦しい日が続いたが、神のご加護か、後半はスムーズに 事が運び、初期の目的を果たした。
 後の3年間は工場のスタッフとして、これまで蓄積したノーハウで手付かずの課題解決や後輩の 指導などにあたった。実に恵まれたソフトランディングであった。そして、最後の出勤日となった 29日にいつもの散歩(パトロールと言おう)コースを歩きながら、来し方を思い還し、時代の 変遷を改めて実感した。   <2010.11.1>  


 
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