●タニコメ旅日記●
雨のみちのく六人旅行記 2005(7月4日〜7日)

        “八甲田山と岩木山に登ろう”
 昨年の「みちのく六人旅」の楽しさに味をしめて、殆ど中毒症状なのを自覚しながら今年も工藤様ご夫妻のお世話になる事になった。  今年のテーマは八甲田山と岩木山に行き、岡部さんは頂上に立つこと、私達は花を愛でながら出来る限り山の上まで付いて行く事であった。  生憎今年は梅雨のシーズンで、殆ど連日雨に降られたが、東北地方の旅は期待に違わず“晴れて良し降られて又楽し”の得心行くまで遊ばせてもらった四日間であった。

 § 7月4日(月)一日目――「きれいな花巻弁」のお出迎え――
 「ありゃ、まんつ、よぐおでんすてくなさったなっす。 どーんぞ、おへれってくなっんせ」。 (あれまぁ、よくおいで下さりました。どうぞ中に入ってください)  「ありゃ、ゆぐきたな。 ながさへれ」。  朗読家 谷口秀子が宮沢賢治の家を訪問した時に、賢治の母君「イチ」さんが出迎えてくれた「きれいな花巻弁の挨拶」である。  下段の一般的な言い方に比べて物腰の柔らかい、上品な語り口だったと述べている。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ・・・
の雨の「メ」、風ニモの「二」を強調した花巻弁の抑揚。  秀子の祖父照井真臣乳(まみじ)は賢治小学校五年の時の担任。  秀子の父謹二郎は稗貫農学校で賢治の教え子だった。  賢治は37歳で没したが母君「イチ」さんはその後も健在だった。  
  私は、かつて現役であった頃、青森の山の方で“韓国語で喧嘩しているのではないか?”と思わせられた「難解な津軽弁」にドギモを抜かれた経験があるが・・。  今度は、偶々「文字」で知った「きれいな花巻弁」だ、どちらにしても私には殆どお手上げだ!。  こんな地方で果たして「大阪弁」が通じるのかいな?。  いささか心配になりながら到着ロビーを出ると、そこには満面に笑みをたたえた工藤さんご夫妻の笑顔があった、ホットした一瞬だ!!。  

* 花巻空港へ
   光風台7:06発、この頃は猛烈な降りの雨であった。  途中待ち時間が多くて伊丹空港に着いたのは8;05であった。  流石に地方空港への出発ゲートはながーい通路の突き当たり、一番奥のNo20であった。  花巻空港行きJAL2181便は定刻8:40に伊丹空港を離陸、予定より5分ばかり遅れたが、ホンのひとっとびという感じで10:05花巻空港に着陸した。  ここで、矢本町を7:30に出発していた工藤さんご夫妻のお出迎えを受けた、それが冒頭に述べた様子だったのです。 “また今年もご面倒をお掛けしますが、宜しくお願いします”。
**  青森に向かって一路北上
 昨年同様三組の夫婦六人を乗せた工藤車は、どうにか保っているという状態の曇り空の中を花巻ICから東北自動車道に乗り青森に向かって一路北上を始めた。  車は、暫くは去年の想い出を辿るようにナナカマド街道を走りながら、今日は霧にかすんで殆ど見えない岩手山や八幡平、昨年最初の夜に泊まった「八幡平ハイツ」の白い建物が見える辺りで昨年降りた「松尾八幡平IC」を通過した。  道は安代(あしろ)JCTを左にとって八戸自動車道と別れ、日本列島の背骨否首筋を突き抜けるように東北自動車道を尚も北上を続ける。  やがて小阪ICに達してようやく一般道へ出た。

* 「康楽館」へ
 小阪はかつて銅鉱山で栄えた街だ。  小阪ICの手前あたりから岡部氏が「何処かにWCはありませんか?と言っていた。  一般道の樹海ラインに入って間もなく、遂にたまりかねて道路脇の大きなブナ林の中で立ち〇〇〇、一人だけが想いを遂げて爽快感を味わった。  こんな一幕があってから間もなく小阪町内の「康楽館」に着いた。  ここは日本最古の芝居小屋とのことながら、今も現役だというのには驚いた。演しもののタイトルは忘れたが今日も上演中であった、因みに入場料は向かいの事務所棟の見学を含めて1900円と書いてあった。
  芝居そのものよりも、私達は木造ながら隅々まで凝った明治の洋館の佇まいに眼を奪われた。  記念碑に刻まれた説明によれば、明治の後半、現在の同和鉱業の前身である藤田組小坂銅鉱山の社内用娯楽施設として建てられたものということだ。  銅鉱山が活況の頃の小坂の街は人口も多く大変な賑わいであったのだろう、そうだゴールドラッシュでは無いけれど、云うなればカッパ−ラッシュだったのだろう。  古くは佐渡の金山の門前街として佐渡島が賑わい、時代が下がって石炭炭鉱の飯塚や夕張なんかも同じように門前街として一時代大変な賑わいを見せたのだ。
* 樹海ラインで十和田湖へ
 「康楽館」を出て暫く走ったところ、七滝の茶屋“孫佐衛門”で今回の旅初めての昼食に「稲庭うどん定食」をいただいた。  再び樹海ラインを走り始めると、この辺りから明らかに周りの植生が変わり北国の風情を湛えはじめた。  下草には大きな葉の「ふき」や「いたどり」「ししウド」などが密生し、ブナの森は次第に深くなってきた。  原始林かと思わせる太い幹の林立した風景が続いて素晴らしい!。  峠を越え、長い下りを右に左にカーブしながら降り切る直前で、眼前にパーッと水面が開けて来た。  はいっ!十和田湖です!と工藤さん。  「発荷峠」(はっか)展望台は絶好のビューポイントであった。
   下り切ったところ、水面すれすれという感じの長い湖畔道路を走って、十和田神社の駐車場に着いた頃には泣き泣き保っていた天気も遂に小雨に変わっていた。  暫く湖畔の散歩を楽しんだ、高村光太郎の作になる「乙女の像」(傍らにある銘板の直筆らしい記述には「裸婦像」と書いてあったが)の辺りから十和田神社の鬱蒼とした森を眺める時、この十和田湖の風情が一層引き立ってくる。  周囲を深い森に囲まれて、澄んだ水を湛えた湖は、何時か見た「摩周湖」と似通った雰囲気を漂わせていた。

* ドサッ!の思い出が
 十和田神社にお参りしての帰り、境内に林立する大きな杉の木を眺めていると、誰言うとなく昨年の平泉は中尊寺の“ドサッ!”の想い出が、「とぐろを巻いた」やつの想い出が鮮明に人々の脳裏によみがえって来たのでありました。  ある人は「もうイヤッ!止めて!」と耳をふさぎ、又ある人は「あれは二匹ではなくて三匹とか、もっと沢山居たんじゃないかしら!」とトンチンカンな数を持ち出していた。  何で態々三角関係やら、ややこしい関係にせんならんのや?。

* 「みどり虫」になった一日
 間断なく降り続くようになった雨の中を工藤車は奥入瀬渓流に向かった。  ここで私は、自分の想像が間違っており全く逆であることに気がついた。  奥入瀬渓流の風景は写真なんかで何度か見た事があるが、この渓流は十和田湖に「流れ込む」渓谷だとばかり思っていたが、実はそれは逆で十和田湖の湖水が流れ出ているのであった。  工藤さんによれば十和田湖の唯一の水の流出口だとの事であった。
「なんだかクリントン川みたいね」ミルフォードに似た雰囲気を楽しむ。奥入瀬渓流にて。


 原始林かと思わせる鬱蒼としたブナ林の中を、時には岩を噛んで白い泡の激流になり、時には静かな滞水面になって流れ降る様は素晴らしく、ほんの少しの間だけれど川っぷちを歩いて、その良さを肌で感じる事が出来た。  明子さんも“なんだかクリントン川みたいネ!、ミルフォードトラックを歩いてる感じネ!”と言って、しばし二年前、三年前に歩いたニュージーランドの山の想い出に浸ったのでした。
 それにしても、この気持良さは何なんだ!!。  白く光る流れだ!、イヤ違うんだ、鬱蒼とした林の中の流れだからこそ感じる気持良さなんだろう。  私達の大阪は、最早盛夏であり山の樹木の葉も今やみどり濃くなっているが、ここ東北地方の山々は、少し高度を上げるとまだ早春の風情を充分に残しており、樹木の葉は黄緑と云おうか浅黄色と云いったら良いのか眼にやさしく映えている。  今日一日、樹海ラインや湖岸道、そして極めつけは奥入瀬と眼にやさしい、みどりの中に埋もれるようにして過ごした私達も“みどり虫”になった一日であった。

**  そして酸ヶ湯温泉へ
  奥入瀬渓流を下りきった辺り、焼山からUターンするような感じで登りに入った。  道はいつしか八甲田の山系に入ったようだった、上り下りを繰り返しながらであったが高度も大分稼いだようで周りの風景もいつの間にか潅木地帯になっていた。
 16:00頃、かなり雨が激しくなってきた中を八甲田山の中腹925mの酸ヶ湯温泉に到着した、今夜の宿だ。  途中GSが見付からなかったから、私達を宿に降ろした後、工藤さんご夫妻にはやむなく山を降って青森市内までガソリン補給に走って戴いて申し訳ないことであった。  
* 湯治場 酸ヶ湯温泉の一夜
 酸ヶ湯は古くから湯治場として有名な温泉とのことであったが、そもそも私達が普段訪れる温泉にはそういう処がなかったのだから今一つイメージが出来ていなかった。  唯一、昨年訪れた乳頭温泉郷“鶴の湯”でそれらしい一端を垣間見たのが知っている全てと言える。  歴史を感じさせる木造の宿泊施設と湯屋であったが、随分と大規模な温泉場のようであった。  二つある風呂の内でも“千人風呂”と呼ばれる大浴場は、なるほど湯治場の湯というのはこんな雰囲気なのかと思わせるゆったりした風呂であった。  木造の大きな広い湯屋の中には、下段に「熱湯」という、実はややぬる目の木の湯船があり濁りも幾分少ないように見えた。  上段には「四分六分」という、ややあつ目で濁りも強い木の湯船があり、脇には打たせ湯がある。  他にはかかり湯があるだけであり湯屋全体が男女混浴であった。  この広い空間で湯浴みの客は、ゆったりと半身浴をする人あり、足湯のまま寝そべる人あり、目を閉じて打たせ湯に当たる人あり、夫々に流れるままの時間を過ごしていた。
 千人風呂の特徴は、ここには洗い場が無いため手桶が当たる音やシャワーの音もなく、本当に静かな雰囲気の中で湯に浸かっていられることが、なるほどこれが湯治場の風呂かあーと思えて心地良かった。  もう一つ気が付いたのは、天井から水滴が落ちてこないことだ。  夕方宿へ入る頃の外気温は既に17度ぐらいであったから、この風呂の湯気が結露してもおかしくないのに一滴も落ちてこない。  建屋は、梁も天井も木造であるが中央の四角錘のテッペンの辺りに煙突効果を出すような工夫がしてあるのかな?とも思ったりしたが、湯船はともかく湯屋の造りは木造が良さそうだというのが今夜の結論だ。
 夕食というか宴会というか、料理も盛り沢山で十分満足出来た。  この地方では定番みたいな「ねまがりたけ」は今日は茹でた皮付きが出た、他にも、しいたけなど山のものの煮物、ホオバ味噌にホタテと牛肉を挟んだ焼き物等々、山辺は山辺なりに工夫をこらしていた。  ビールで乾杯の後に戴いた焼酎、ご当地銘柄の「津軽海峡」のクセの無い透明な味は、なかなかイケル部類であった。    次第に強くなる雨が災いしたのか、ビールでの二次会は今一つ盛り上がりを欠いた。  夜更けと共に風も出てきて、一晩中間断なく降り続いていた。
 明日の八甲田登山が危ぶまれる状態だな!と感じながら二階の熱い湯に浸ってから床についたが、これが夜中の騒動の元になったようだ。  夜中にあまりに冷たくて気がつくと、「ゆかた」はベトベトに濡れて冷たくなっていた、湯さましをしない内に布団に入ってしまったからなのか、熱でも出たのか判らないが着替えて寝なおした翌朝はすっきりしていた。

  § 7月5日(火)二日目 ―― チンデン(沈澱)の日――
   昔山登りをしていたころ、雨や吹雪で行動出来ない日は「今日は沈澱だ」或いは「停滞だ」と言っていたのを思い出した。  夜来の吹き降りも朝方にはいくらか収まったようだが、止むことはなかった。  天気なら「にぎりめし」を担いで早発ちというのが当初工藤さんが建ててくれたスケジュールであったが、この天気では諦めるしかなかった。  朝からのんびり風呂に入ったり、ゆっくり朝食したりしたが、この古い温泉宿での朝食がバイキング形式だったのにはエエッと思って仰天した。  持駒の中にあるのか、必死に考えてくれた結果かは知らないが、こんな日も二の手、三の手を打てる工藤さんご夫妻はエライ!遊びの天才だ!。  本日の行動は、工藤さんが考えてくれた案の中から、曰子(えつこ)さんご希望の「青森ねぶた村」と、明子さんご希望の「棟方志功記念館」に立ち寄ってから後、明日の登山の基地である岩木山の麓の宿「アソベの森いわき荘」へ向かうというスケジュールになった。
* 滝になった登山道
   小雨が降り続く中、酸ヶ湯温泉を後にした工藤車は、一路青森市内に向って山を降りはじめた、というのが潔く八甲田登山を諦めた人達が辿る筋書きであるが、それでも未練がましく一応八甲田登山口まで現地の様子を確かめに行った、そこが工藤さんの責任感の強いところだ。  立派な鳥居の下に、丸太を置いて階段状に作られた登山道には“滝のように”雨水が流れていた。  
大雨で滝のようになった八甲田登山口


百名山を目指す岡部さんには誠にお気の毒なことだが、この有様を見せられては如何ともし難く、諦めるしかなかった。  岡部さんにはようやく納得していただいて、今度こそ本当に「ねぶた」が待つ青森市内に向かって山を降り始めたのだが、途中田代平方面に入って「後藤伍長遭難の碑」を見に行った。

* こんな悲しい遭難死があるか!!
 明治三十五年、青森第五連隊の雪中登山訓練による雪山での遭難事件は永らく軍の秘密にされていて一般には知られていなかったが、山の作家新田次郎によって「八甲田山死の彷徨」として世間に知らされたことで明るみに出た。  ストーリーは誰もが先刻ご承知のとうりだ。  強風の丘に立つ青年伍長の若々しい面影は見る人の心を打つ。  なお、見には行かなかったが遭難死(全員凍死)した199人の石碑は青森市が見通せるこの近くにあると言う事だった。
 雪山の遭難死は昔も今も毎年数えられない程起こっているが、これほど腹立たしく、悲しい遭難死はないだろう。  こんな大事故に到った原因は、突き詰めれば“地元の経験豊かなガイドを雇はなかった”ことに尽きる。  狭量で、非科学的で、依怙地で無知なリーダーに率いられた部隊の落ち行く運命は憐れだ。  口を塞がれ、声を奪われた若い伍長の母の嘆きや悲しみは、馬鹿な上司には解るまい。
 日本のエライ人、特に軍人は昔も今もそうだが、こういう大失敗にもメゲズというか、失敗から何も学ばずというか、「科学的な根拠に基づいて冷静に判断する」という素養を身に付けないまま、明治が大正へ昭和へと引き継がれていった挙句、先の戦争に突入したのだ。  敵対国との兵力の比較も、技術力の比較もせず、戦争を維持するための兵站の有無も検討せず、唯やみくもに「神国日本の軍の不敗神話」のみを頼りに戦争を仕掛けたのだ。  後藤伍長の遭難死に到るストーリーと何ら変わるところがないではないか、彼等の死は軍の指導層にとって何の反面教師にもなっていないではないか。  この昭和の戦争における“巨万の母の隠した涙の量”は明治の母のそれより桁外れに多かったのは当然だが、自我をすらコントロール出来ずに戦争に突入した日本国の指導層の罪は許せない。  時の総理大臣が「靖国神社」に参拝するのはけしからん!なんぞと隣国から言われなくとも、ここに合祀されている戦犯達の“国を敗戦に導いた罪と余りにも多くの犠牲者を出した事に対する謝罪”はどうしてもしてもらわなければ国民は納得できないし、この罪は許せない!。  話を元に戻そう。
* 青森は「ねぶた」、弘前は「ねぷた」というのだそうな
青森ねぶたの里には、かつて本番に出展された「ねぶた」や「ねぷた」の中から年に一〜二点が選ばれて展示されているとの説明であったが、聞きしに勝る大きな張り子であった。  しかしながら、張り子とは云っても内外部の造作は大変精巧なもので、製作工程も説明されていた。  全体像を示すイメージ図⇒部分詳細設計図⇒配線図⇒紙貼り⇒外部絵付け。  このような流れで設計図に従って作られて行くのだが、多分設計と製作にはパート毎に専門家がいるのだろうが、あの大きな物体の内部は殆ど“ハリガネ細工”であったのは驚きだった!。
 八月のねぶた本番の時には、これが発電機を積んだ台車に載せられ、無数の豆球や電灯でアカアカと照らされながら大勢の引き子に引かれて行く。  その先駆けには大勢の“踊り子”が笛や太鼓に合わせて“ラッセー ラッセ− ラッセッセ”と囃しながら踊って、何時間もかけて市内をネリ歩くのだそうだ。(訂正。2006、8,3の新聞ではこの囃子言葉は『ラッセーラー』と紹介されていた,多分これが本当なんだろう。)
 私は他所の祭りにはあまり興味がないので適当に眺めていたが、アトラクションタイムがあって来場者参加の体験ねぶたには『祭り大好き人間のえつ子さん』と、『何でも一口乗ってみたい明子さん』が参加してラッセ−ラッセ−とハシャイデいた。  このラッセ−の踊りはとても複雑で並の運動神経の持ち主ではムリなようだったので、当然私は参加しなかった。  ところが、今日は岡部政弘さんの体調が悪く、この頃から大分苦しんでいたようだった。  八甲田山へ登れなかったショックが大きすぎて気落ちして体調不良になったのか?!なんて周りは勝手な事をいっていたが、祭りを楽しみも出来ずにお気の毒さまでした。

* 棟方志功の作品
棟方志功展示館というのは各地にあるようだが、ここ青森市内には生まれ故郷として記念館があり版画の大作や屏風絵が展示されていた。  特に絵や書は、勢いで書いたという感じで、上手に書こうというような気配が感じられないのが良い。  芸術家は大なれ少なれそういう傾向があるのだろうが、この人の作品を見ていると、子供の眼が何の濁りもなしに、子供の心が何にも汚されずに「ひょいっと大人になって」製作された作品のような気がする。
**  岩木山の麓を目指して
   工藤車は、早々に青森市内を抜け、R−7で弘前市内を迂回しながら早くも岩木川を渡った。  この辺りからは天気さえ良ければ優美な裾野を持った岩木山が望めるのだそうだが、生憎今日は霧に隠れて見えないのが残念だ!。  ようやく見つけた「道の駅」で五目ラーメンと天ざるの昼食を戴いて、道は鰺ヶ沢方面へ、次第に「百沢 嶽温泉」という道路標識が目立ってきた、いよいよ岩木山麓が近づいて来た様子だ。
* 神社なのに造りは寺院みたいだ!
ほどなく工藤車は岩木神社に到着した。 大きな鳥居と長い参道を持った立派な神社だ。 だけど普段私達が見慣れている「神社」とはちょっと違うように感じるのだ.。 神社なのに造りは寺院なのだ。 立派な山門なんかはどう見ても寺院の門なのに、ここに神域の象徴である太い「しめなわ」が懸かっていたりする。 明治初期の廃仏毀釈令の時、元来寺院であったものを「建前」を神社にして難を逃れたのだそうだ、と言う工藤先生の解説であった。
 そう云われれば、紀州では南方熊楠が猛烈な反対運動をして投獄されたこともあると読んだ記憶がある。 山門脇に「岩木山登山口」の標識があり頂上まで四時間十五分と書いてあった。 とにかく明日はどうにかして岩木山を登りたいので、皆して賽銭をハリコンデ、天気にしてくれますようにと、お願いした。
* 工藤さんはあくまでも慎重
 ここから今夜の宿“アソベの森いわき荘”は直ぐ近くなのだが、今日の工藤さんはあくまでも慎重だった。  明日のために登山道入り口の「門」が開いているかどうかを確認に行ってから宿に入った。  何でも、雨が強かったり霧が深かったりすると閉じられてしまうのだそうだ。  この辺の高原一帯は、多分県だろうと思うが、広い地域をスポーツ施設や運動公園として開発中の様子であった。

**  アソベの森「いわき荘」
   百沢温泉郷にあるこの宿も公共の宿(国民宿舎)だ、とのことであった。  昨年の八幡平ハイツや栗駒山荘でも感じたのだが、この「アソベの森岩木荘」で一層強く感じたのは、館内の造りといい温泉の湯屋といい、金に糸目を着けずに造ったのではないか?、「予算」というものを決めずに造ったのではないか?という位に贅沢な造作であったことだ。  更に、これも昨年同様に感じたのは、気持ちよい接客姿勢であった。  工夫を凝らした料理や接客マナーの良さはとても気持良く、全く「官のシッポ」のようなものは感じなかった。
* 新発見
 温泉はやはり濁り湯だが、昨夜の酸ヶ湯よりは濁りかたは少ない。  ここの湯屋も全てが木製だ、真新しい感じの丸太の梁や天井からは一滴の水滴も落ちてこない。  昨夜酸ヶ湯の湯屋で水滴が落ちてこないのに感心して眺めていた時は、屋根の頂部が煙突状になっていて吸引効果で湯気が排出されるから水滴にならないのだろうと思っていたが、今日この木造屋根の湯屋でも一滴の水滴も落ちてこないのを見ると、屋根の「構造」ではなく「材質」に依るもののようだ、やはり湯屋の造りは木造に限る、これは新発見だ!。  浴槽にも工夫がありました。  長方形に近い木の浴槽の、短形側の一方に底板が付けられており、浴槽の縁を枕にして仰向けに寝転ぶと、丁度よい按配に腹が湯に浸かる程度の深さになっていて、イイ気分で暫し居眠り!。   露天風呂は何故かサビ色の湯だった、鉄分が多いのだろう。  ここは百沢温泉郷の一画だが、いくつもの源泉があるのだろうか?。
* 津軽の酒は超甘口だった
 夕食も工夫をこらした、なかなかの豪華版であったが、「ボタンえびの造り」と「ホタテと牛肉などの石版焼」以外は何を戴いたのか、今はもう定かではない。  最近の傾向か知らないが、横並び型というか文鎮型というか、いろいろ工夫している割にはメインがはっきりしない料理が多いように思うのは、私の頭が古いのかなあ。  そんな美味しい料理につられてお酒も進んだ。  昨夜の酸ヶ湯ではビールで乾杯の後は焼酎を戴いたので、今夜は日本酒ということにした。  リストの中で一番のカラ口と教えられた“じょっぱり”を飲んだが、かなりの甘口、女性陣にさえ『あまーい!』と言われて、あまり好評ではなかった。  どうせならと、今度は“・・・カラ”という名前につられて“じょんカラ”というのを試してみたが、これはもう問題にならない甘さであった。  津軽びとは甘口がお好きのようだ!。
* 津軽三味線「じょんから」の夕べ
 しっかりお酒も戴いた後は、津軽三味線「じょんから」の夕べが開かれていた。  私も一応席には着いたものの、うっかり居眠りをしてしまって申し訳ないことであったが、工藤さんや明子さんは難解な質問を浴びせて奏者を困らせていた。

§  7月6日(水)三日目 ―― 岩木山登頂の日 ――
*  朝食がまたスゴイ!
 あそべの森「いわき荘」で気分良く眼を覚ました。  早朝眼を覚ました時には、上天気とまでは云えない迄も、一応雨は止んでいて、今日の岩木山登頂を確信したのだが、朝食時間の頃には又降り出した。  今日は多少の雨は覚悟の上だ、問題はむしろ濃霧による登山自動車道の閉鎖だ。  工藤さんも、えらい気の遣いようで「一つ位は登らせなくちゃな!」と相当プレッシャーがかかっている様子であったが、こればかりはお天とう様にまかせるより仕方ないでしょう。  昨日岩木神社の神さんによう頼んどいたから聞いてくれるやろ!!。  そんな事を気にしながらの朝食であったが、これが又なかなかの力作。  松花堂風というのか、器も料理も大変手のこんだ作品で、特に女性陣には大変な好評であった。
 
**  岩木山登頂、ラッキーな半日であった
   いくらか小降りになった中、“これは通り雨やで”とか云いながら自分で自分を励ましてはいたが、期待と不安が入り混じった六人を乗せて、ともかく工藤車は「アソベの森いわき荘」を出発した。  登山道はかなりの濃霧であった、料金所のおばちゃんに“登るんですか?リフトは止まっていますが”とか云われながら何とかギリギリセーフという感じで通してもらった。  70曲がりの九十九折れ、と言うのも変な話だが、とにかく右に左に70回も曲がるカーブはミルク色の濃霧で殆ど視界が利かない。
 濃い霧を掻き分けるようにして名手工藤ドライバーは、四十五!、四十六!とカーブを数えながら慎重に登って行った。  70曲がりを数えて辿り付いた駐車場は雨だった、ここはもう八合目らしい。  当然リフトは止まっていたが、工藤冨美子さんの“歩いても30分位で九合目まで行ける”の言に励まされて、ごく自然に歩き始めた。  ブッシュの中の登坂は、雨のおかげでかえって涼しくて良かった。
 登り始めてすぐの処にハクサンチドリの濃いピンクの花が咲いていた、この花は帰りに乗ったリフトの下にもやたら沢山咲いていたが、今回の山行ではじめて知ったヤクシュという花と共に花の少ない岩木山では目立っていた。  この山の特徴的な花、「みちのくこざくら」は何処かに咲いていたという説もあったが見ることは出来なかった、帰りのリフトの切符に印刷された写真で可憐な姿を偲んだだけであった。
雨の合間を縫って登頂成功。ガスの岩木山頂上


 九合目に出た頃には小雨とも霧とも判らない程度になり、ガスで眺望が利かないのを除けばまずまずの登山日和になった。  九合目から上は火山岩のゴロゴロ石の斜面を、かなりの強風に煽られながら登った。  10:35頃、先ず岡部政弘さんが頂上に達し、他の三人も次々に頂上を踏んだ。  相変わらずガスは深く眺望は無い。  頂上は珍しくダダッ広く三角点や柱石がなければ、何所が頂上かいな?と迷う位であった。  早速岩木神社の奥の宮に、無事登頂のお礼参り。  岡部さんはこれで百名山の内四十三座目の登頂を達成したことになる。  オメデトウ!岡部さん!。
 私達が降り始めるころには天気も大分回復してリフトも動いたようで44人や21人の団体が頂上を目指していた。  私達も、どうせ動いているなら乗らなきゃ損みたいにリフトに乗って駐車場まで降ってきた。  登りには手探りみたいだった、「くねくね道」も帰りはすっかりガスが取れて下界では微かに晴れ間も見えるようになっていた。

自分の足で登って来たのよ!


**  恐ろしげなマタギ料理だったが・・・
単純な人間への“刷り込み”というのは恐ろしいものだ。 かつてテレビで1〜2度「マタギ」が雪の中で熊を追う様子を見ただけだが、すでに頭の中には“マタギ=熊”の構図が出来上がっているものだから“マタギ料理”と聞いた途端、頭の中には「熊料理」を連想する回路が出来ていて、一瞬身構えたのであった。
* 実は本当に美味しいご馳走であったのだ!
 工藤さんのお見立てで「マタギ飯」と「山菜セット」のようなのを注文した。  “30分ほど時間がかかりますが、よろしいでしょうか?、ここでお米からご飯を炊きますので”と店の女性の案内。  早速一人ナベ用のメタノールコンロが二つ並べられた。  “この「ご飯用のコンロ」の火が消える頃、こちらの「土瓶蒸しコンロ」に火を点けて下さい、「土瓶蒸しコンロ」の火が消える頃にはご飯の方も丁度蒸らしが終わって美味しく出来上がります”。  こうやって説明を受けたが、同時に“ご飯が煮えている間は決してフタを開けないように”とのキツイお達しであった。  ハイハイおっしゃる通りに致しますようーと、待つこと本当に30分。  最初にフタを開けた明子さんの“オイシイ!”の言に次々と蓋を開けた。  「土瓶蒸し」もちょっと小当たりに毒見、ウン!ええ香りや!エエ味出てる!。
   最早「恐ろしげな熊料理」のイメージも何処かへ吹っ飛んで、それはそれは素朴で美味しい山菜料理の出来上がりであった。  山菜飯は、ささがきゴボウや根曲がりたけなど沢山の具が入った炊き込み御飯で、これは何のダシで炊き込んだのだろうマロヤカナ味わいであった。  一方「土瓶蒸し」の方は、マイタケとホロホロ鳥(とメニューに書いてあった)であった、こちらの方も香りもダシ味も素晴らしく、岩木山登頂の“ご褒美”のようで結構なお昼ご飯でアリマシタ。

**  気分良い東北地方の道
*  アップルロードの両側は見渡す限りのリンゴ畑。
  津軽はリンゴの国とは聞いていたが、聞きしに勝る一面のリンゴ畑には圧倒された。  岩木山も無事登ったし、美味しいマタギ飯も戴いたしで満足顔の六人を乗せた工藤車は、今夜の宿、岩手県花巻温泉郷を目指して一気に南下すべく東北自動車道大鰐ICに向けて、道を“アップルロード”にとった。  緩やかな丘陵を登り降りしながらの道の両側は、尽きる事が無いのかと思わせる一面のリンゴ園であった。
 今はまだピンポン球ほどの果実だが、袋掛けをしているゾーンあり裸球のゾーンありであった。  この違いは一体何なのか、種類によるのか、用途別なのか、何故そうしているのかは私達には判らないが、これを一つ一つ人手でやるのは気の遠くなるような作業だ。  私達のように見て行過ぎるだけなら良いが、これを仕事にする農家の人達はドエライ事だなあーというのが実感だ!。  それにしても、これだけの大量のリンゴを誰が食うのだ!。  ある程度はジュースやソースなど加工食品になるのだろうけれど・・・。
  * 東北自動車道で発見、“阿じゃ羅”はあった
 大鰐弘前ICから高速に乗った頃は気になる程の雨は降っていなかった。  高速に入って間もなく、ちょっとした発見があった。  “阿じゃ羅PA”というのがあるではないか!。  昔よく歌っていて、岡部さんの持ち歌みたいな「シーハイル」という歌。 岩木山に来たので、昨日から時折皆で口ずさんでいたが、この歌の一小節に“昨日はぼんじゅーれ 今日また−あじゃら”というのがある。  私は、こんな都合の良い山の名はないだろうと思っていたので、たまたまフランス語をモジッテ当てたものと考えていた、つまり“昨日はボンジュール(コンニチワ)今日またアデユー(サヨウナラ)”なのだ。
しかし今判った、岩木山があり阿じゃ羅があったからには何処かに“ぼんじゅ嶺”があるに違いない、そうなんだ、これはこの地方の、言うなればご当地ソングなのだ!!。 工藤さんの解説、旧制弘前高校スキー部の歌だ!というのは本当にそうかも知れないな。 皆は知っていたのかも判らないが、私には「発見」であった。
* 大雨の東北自動車道を一路南下
 東北自動車道は珍しく交通量もそこそこ多かったが、それよりもはるかにドライバーを悩ましたのは激しい降雨であった。  特に安代JCT前後の山間部での“しのつく雨”と、「川のように流れる」走行車線は相当ドライバーの神経に触ったと思われる。  岩手山SAの辺りまで下ってきた頃には、雨もやや小降りになっていたが今度は大型車が巻き上げる水しぶきを避けながらの走行となった。  ドライバーの工藤健二さんとナビゲーターの工藤冨美子さんには大変お疲れ様でした。

  * 雨に煙る大沢温泉へ
 雨は間断なく降り続いているが、ようやく小降りになった中を、花巻南ICで東北自動車道と別れた工藤車が、花巻温泉郷大沢温泉菊水館に入ったのは五時少し前だったと思う。  高速道路がメインだったとはいえ、今日は随分走った、今回の走行距離も今日で800kmを越えたのではなかろうか。  濃霧の70曲がりや豪雨の高速道と、随分悪条件の中を走っていただいて重ね重ね申し訳ない次第であります。
**  大沢温泉菊水館
 豊沢川に沿って点々と立地する花巻温泉郷の一軒宿「大沢温泉」は随分古い歴史のある温泉で、高村光太郎や宮沢賢治にも愛された温泉なんだそうだ。 私達が泊まった菊水館も、母屋の建物は築150年との話である。 私達の部屋がある棟は茅葺屋根の建物で、随分の歴史を感じさせた、工藤さんの話では、この建物は旧釜石製鉄所の厚生施設を移築したものだとの事であった。 先日泊まった酸ヶ湯温泉でもそんな雰囲気を感じたが、この温泉こそが、まさに“これが湯治場といわれる宿かあー”と感じた。 普段私達が行く温泉旅館にはない「ひなびた」雰囲気があり、現に“自炊部”という棟もあって風呂へ行く途中でチラッと炊事場が見えたりしていた。
宮沢賢治も常時来ていたと言う花巻大沢温泉郷の6人組


* 幾つもある風呂だが
 いくつもある風呂の中で、結局私は、川辺の露天「大沢の湯」、屋内の「南部の湯」と、山水閣の半露天「豊沢の湯」、この三箇所に入ったが、まだ他に幾つもの風呂があるとの事であった。  やや熱目で透明な湯は、昨日までの各地の湯とは一寸様子が違っていたが、私はこの中では屋内の木の湯船である「南部の湯」が一番合う感じがした。  何もここで風呂の品評会をするつもりはないが、例の後藤伍長の遭難碑の記憶がまだ胸に去来していて、これとからんで出征兵士の母の気持のようなものが頭に浮かんできて、私の心にちょっとした起伏が出来たからなのです。
* “みず”の瘤が出た
 夕食の献立の冒頭に“みずの瘤”というのがありました。  一昨日、十和田神社の森を歩きながらの工藤さんの話に「唯一アク抜きせずに食べられる野草で、季節になると、この先に“実”(と言ったかどうかは疑問だが)がつく、これが又美味いのだ」という“みず”のことを聞いていた。  その「実」というのがコレのことではないかと思ったのであります。  「山いものムカゴ」を噛んでいるような食感で、珍しい味であった。  もっとも、今の季節にはこんなものは出来ないから塩漬けだろうとのことであった。 このようにして、知らない土地の知らない食べ物の味というものを覚えて行くのだなあーと思ったものでした。
* 焼酎“霧島”での二次会は盛り上がった
 昨夜の日本酒は、最もカラ口と教えられた“じょっぱり”ですら随分甘く、名前につられて選んだ“じょんカラ”に到っては程度を越えた甘さが男性陣には不評であった。  だからという訳ではないのだけれど、一応何かタテマエみたいなものをブチ上げたくなるのが酒飲みのアホサ加減で、ウジうじした挙句、今日は焼酎にしよう。  「ありますか?」  「霧島ならあります」。  これで一決、私五分五分で。  「ウーッ、コレハ イケルデー」。  「エエデー」。  僕カー四分六で。  「ウン!、コリャ− イイヮ!」  それほどキツクないイモ焼酎の香りもグー。  これで調子に乗って、“ゼリー寄せが好きな料理長やなー”なんて悪口を言う人もいたが、そう云いながらも料理をすっかり美味しく戴いた。
  さて、ここから後が大変で、工藤部屋での二次会がおおいに盛り上がった。  初日の酸ヶ湯では、まさか「霧島」が無かったせいではなかろうが、まだ硬さがあって今イチ盛り上がりに欠けていたように思うが、今日は皆“ゼッコウチョウ”だ。  大体の目安は、普段は口の重い!?岡部曰子(えつこ)さんの口数が増えることだが、その土台つくりは工藤さんの武勇伝と岡部政弘さんの四柱推命(か何か、私には判らないが)で云々コンヌンと出だした辺りが好調期に入るバロメーターかと思う。
   常態における岡部政弘氏は、特に歴史に関する話題では実に博識で「何やら天皇の時に誰やらがどうして・・・」とかの話になると次第に熱を帯びて来る が、そういう話になると私なんかは解る訳もないので、まるで英語でも聞いているようにただ呆然としているだけだ。  しかし、この状態は盛り上がりのレベルとしては未だ低い。  ゴギョウ(はこべらではないが)のレベルに持ち上げるためには、励起エネルギーとして「酒」は勿論だが工藤節が、加えて岡部えつこさんの発言の多さが必要なようだ。  良くも悪くも相互作用によって何かが起こるというのはよく解るなあ。    こうして大沢温泉の夜は賑やかに盛り上がりながら更けて行ったのでありました。  外は雨。

  § 7月7日(木)第四日目  ―― 雨も又良し ――
早朝「豊沢の湯」へ行く時には雨は止んでいたが、基本的には今日は「雨」だ。 そこは遊び方を知っている工藤ご夫妻の事、何も案ずることはない。 外でウロウロするのを極力少なくして楽しむ方法は用意されていた。 文化的な生活は私にはニガ手だが、今日一日は高村光太郎と地元花巻が生んだ特異な文人で思想家の宮沢賢治の世界に遊ぶのだそうだ。
* びっくりしたあー、生きた化石かと思った
 高村光太郎記念館と山荘見学。  高村光太郎が太平洋戦争末期から七年暮らしたという山荘と記念館は花巻市の外れにあった。  宮沢賢治の紹介で、何所だったかの作業小屋をこの山際に移築して棲んだという小さな家は山荘というには余りにも「あばらや」ではあるが、今は二重の覆い屋に守られて保存されていた。
   高村光太郎は、先日十和田湖畔に建つ「乙女の像」と呼ばれる裸婦像を見てきたばかりだから彫刻家であるのは判っているのだが、私の頭の中では今も、“東京には空がないと智恵子は言った”の智恵子抄の作家であり、しかも遠い歴史上の人物なのだった。  ここ光太郎記念館には光太郎の作品や縁故の人々との交流の記録に混じって一枚の写真があった。  何の気なしにチラッと見ていた時、先ほど入場券をモイデいた老婆が近寄ってきて、これは「光太郎20歳の頃に子供達のためにサンタクロースに扮した写真です」という。  しかも、その衣装は私がつくったと、目の前の老婆は言うのだ!。  赤い布が無いから襦袢を裂いて創り、白い毛は羊の毛をくっつけたというのだからマンザラ嘘ではないだろう。  光太郎は私の頭の中では遠い歴史上の人物なのだから、こういう人物と同時代を生きたという女性が目の前に現れた時は、これには驚いた。  歴史上の亡霊が現れたのかと一瞬思ったのだが、考えてみれば必ずしもツジツマの合わない話ではないのだ。  
 アレッ?、これは現在学校教育の現場で起こっている事と同じではないか?。  私が遠い歴史上の人物だと思い込んでいたのは、計算が出来ないからではなくて、歴史の勉強をしなかったからだし、教えられもしなかったからだ。  習わなかった事象は全て遠い歴史上の出来事なんだ。  先の戦争だって、私達はその戦争の時代を生き、戦争のある側面を体験してきたから、何年経っても「先の戦争」として私達の脳裏から消え去る事は無い。  しかし、私達の子供、ましてや孫の年代になれば学校教育として丁寧に教えない限り、徳川時代の出来事も、先の戦争も一緒になって「遠い歴史上の出来事」として記憶されるだけになってしまうのではなかろうか?。
 
** “なめとこ山庵”で「小十郎そば」を戴いて
  宮沢賢治記念館の近くで美味しい「そば」の昼食を戴いた。  「なめとこ山の熊」の主人公の名前からとった“小十郎そば”は、つなぎを全く使わないから十割そばだ。  これを、挽きたて、打ちたて、茹でたての三たてで食わせるのだから美味くない訳がない。  何せ、客の顔をみてから挽きはじめるのだから、ジックリ待つ覚悟が必要だ。  「つなぎ」無しでよく「ひも状」のソバになるものだと思っていたが、最初はお湯を加えて、つなぎを造りながらこねて行くのだ、との工藤さんの説明にナルホドと納得。
 お湯でそば粉の一部をαデンプンに変えてネバリを出すのだな!というのが私の理解。  流石に美味かった。 今日のは北海道産だとは主人の言。  昨日の「マタギ飯」といい、今日といい、待つから美味いのか?待たせる位味に自信ありか?。  どちらもそうなんだろうな!。
* 宮沢賢治の母“イチ”さんが
 高村光太郎記念館では光太郎を訪問した賢治の両親の写真に接したが、ここ宮沢賢治記念館では、より鮮明で活き活きした“イチ”さんの優しい顔写真に接した。  何も私が特別に“イチ”さんを強調する必然性はないのだが、今回の旅で花巻空港に降りることが決まって後の05年5月4日の日経新聞文化面に“イチ”さんの「きれいな花巻弁」のお出迎えの寄稿があったからインパクトが強かっただけだ。

* 本当にお世話になりました
 私達のフライトは花巻空港発19時のJALだから、午後はたっぷり時間がある、一方工藤さん達は今から又八戸へ向かわなければならないから、「小十郎そば」を戴いた後、私達を賢治記念館に落としていただいてという案もあったが、結局賢治記念館にはお付き合い戴いた。  宮沢賢治童話村まで送っていただいた後、ここでお別れとなった。
 計画も、手配もしていただき、連れてまわっていただいて、これ以上ないというオンブにダッコの旅をさせて戴きました。  晴れて良し、雨降りも又楽しと言うコースを設定していただいて、言う事なしの旅で本当にありがとうございました。    秋には「かに」がお待ちしていますと、握手して走り去る車に手を振った。    私達はその後も尚ゆっくりと童話村に遊んでイーハトープの世界に浸った後、16時過ぎに花巻空港に向かった。
* 宮沢賢治は宇宙人?
 農業学校の先生と作家から新しい農業の普及に奔走し、ついにはアルカリ性土壌にするための石灰生産に首を突っ込んで、砕石業者の片棒を担ぐ辺りまでは、イモズル式に考えればありそうな話だ。  砕石した石灰岩(CaCO3)を焼いて生石灰(CaO)とし、水を加えて消石灰(Ca(OH)2)にすれば、昔運動場に白線を引いたヤツ、今は畑に撒いている石灰だ。  しかし、その後天体に興味を持ち、童話をつくり、山に登って鉱物を観察採集し・・・と行動を広げ、アメーバ的に宇宙観、宗教観を広げて行く思考の拡がりは到底凡人には理解しきれない。  やはり宮沢賢治はイーハトープに降り立った異星人かも知れない。
  * 胸一杯の満足を土産に
 岩手花巻空港に早めにチェックインした私達は、夫々に旅の成功を祝って乾杯し、軽い夕食をとった。  この頃には久しぶりの陽光がまぶしい程に天気は回復し、搭乗時間の頃には「今夜は星も見られるだろう」という位の上天気になったのは何とも皮肉であった。  19:00発JAL2188便は5分ほど遅れて花巻空港を離陸。  20:35頃無事着陸した伊丹空港のアスファルトは乾いていた。  電車はまだ家路を急ぐ通勤客で賑わう時間帯であったが21;30頃、私達も“胸一杯の満足を土産にして”四日ぶりの光風台に帰り着いた。  ありがとう工藤健二さん冨美子さん。

                     05,7,11 幸一記。
  追記
 大阪空港の荷物受け取り場でバッタリ、ゴルフ仲間の奈須さんに出会った。  同じ便に乗り合わせていたらしい。  秋田駒と早池峰に行ったが雨で散々だったとの話であった。  何処も似たような状況であったようだが、そんな中で私達が岩木山に登った半日の天気というのは奇跡的なラッキーであったようだ。

topボタンの画像
[メニューへ]