再び1000年の道

   
河瀬からの道
原谷の石畳へ
大峠全景3軒の宿屋があった
椎の大木はすべてを見てきたのか
1000年前の石畳
ウラシマソウ一枚の葉が子葉に分かれる
上に伸びる太郎の釣り糸

一昨年の2月にナナと歩いた近所の熊野古道、鹿ヶ瀬(ししがせ)峠を叔父夫婦と再び歩いた。叔父の幸一さんは「原谷側に残る500メートルに及ぶ1000年前の石畳」に興味を覚えて鹿ヶ瀬峠への初チャレンジを思い立ったものだ。5月5日は曇天で、暑くもなく寒くもない絶好の古道日和。私の車に二人を乗せて、広川町側の河瀬(ごのせ)王子に降ろして峠の方向を指差して大体の方向を示した。彼らは準備運動の後、峠に向かって歩き出した。
 それから私は日高町側の原谷に車を移動させ、金魚茶屋の近くに駐車して、ナナと頂上の大峠に向けて逆コースを辿った。まだ平坦な道で、田んぼのあぜ道を体調30センチほどのウリ坊がトコトコと走っているのに出くわした。背中のウリ状の模様がくっきりとして可愛かった。叔父が歩きたい石畳を先に登って、あまり疲れも覚えずに頂上へは35分で着いた。大峠には心地よい風が吹き、ライオンズクラブが寄贈したベンチに座って、お茶など飲みながら二人の到着を待った。ここには昔3軒の旅籠があって、賑やかな往来であったことが立て看板に絵入りで書いてある。トンネル技術のないころの紀州路の国道であり生活道であったのだ。また、この近くに鹿ヶ瀬城があって、南北朝時代に大きな戦があり、こんな狭いところで1000人以上の武士が戦ったと、別の書物で読んだ。
 かれこれ1時間もたった頃、携帯が鳴った。幸一さんの声で「鹿ヶ瀬随道に出てしまった。車がバンバン走っている」という。現在の国道42号線じゃないか。途中で道を間違えたらしい。こちら側の古道には2箇所、害獣の進入防止扉を設けており、そこを開けて入るのだが、少し先から一つ目の扉が目に入ったとき、これは通れないと判断して、手前で右の道に入ったそうだ。改めて元に戻って歩き出すとのことなので、途中まで迎えに行くことにした。約1時間後に迎えの場所まで登ってきた。ナナの出迎えにまずビックリし、そして喜んだ。そこから4人(?)で頂上に向かうが、二人は道端のムベのツルを見つけては小さな花の咲いているのに感動し、タラの芽が長けて伸びきっているのにガッカリしながら歩くので、歩みはのろいが反面内容が濃いのだ。数種類のマムシグサが森林の中の道端に生えていた。名前のとおり、薄暗いところでマムシが鎌首をもたげたような花が咲くので、不気味な草だ。頂上が近づくと左側にドクロ伝説の法華壇がある。独活が数株生えていたが、これも長けていた。
すぐに頂上の大峠だ。しばらく休んで原谷へ下る。しばらくして小峠に着くと小さな表示があり左猪谷とある。津木への道だ。今、その猪谷にある沖家は、昔この小峠に住み商いをしていたという。今も屋号を小峠と言っている。ここは真っ直ぐに進むと、背の高い自然林の中で竹が勢力を得て、長けた筍が伸び放題に伸びているがこれも自然か。タブノキの並木があった。クスノキ科の高木で別名イヌグスともいう。やがて、足元の石畳がくっきりと姿を現してくる。二人は1000年前の旅人の心を足裏に感じながら石畳をゆっくりと踏みしめる。500メートルの石畳の中ほどは、石に緑色のコケがついて古の風情を感じさせる。道端に変わった葉の植物を見つけた。ウラシマソウだ。初めて本物を見た。花房から伸びる30センチもあるツルのようなものが浦島太郎が釣り糸を垂れている様子に例えてこの名がある。感動だ。少し下にもう一株あった。マムシグサやウラシマソウはサトイモ科で、これらを総称して天南星(テンナンショウ)と言うそうだ。
 1000年の石畳は森林が終るところの小橋で終る。そこからは最近似せて作られた石畳になる。なだらかな道端は公園風に整備され、句碑が何本も立っている。両側には放棄田が続くが、その昔、旅人はやっと峠越えの苦痛から開放され、田植えをする農民の姿など見ながら歩いたことであろう。やがて、金魚茶屋に着き、珈琲など頂いて鹿ヶ瀬峠越えを終える。

 <2007年5月5日>  


 
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