熊野古道を行く(藤白王子〜山口王子)
   
これからあの峠を目指すのだ
熊楠の命名の元になった大楠
我々の前に歩こう会の一行
有間皇子の墓の向こうには発電所が
いよいよ藤白坂だ
一丁ごとの丁石地蔵
見事な竹林だが
硯石には水がはいる穴が
御所の芝から海南市街を望む
田道間守神にみかんの豊作を祈る
泣き相撲で有名な山路王子神社
一軒ごとに橋がかかる一坪川
天上の沓掛の集落
拝の峠から見る下津湾
蕪坂王子でスタンプ
弘法大師の爪書地蔵
宮原町の山口王子

 5月30日、前日の天気予報では曇りであったが、6時のナナの散歩時は太陽が出ていた。ふと思いついて 熊野古道を歩こうと妻に声をかけると「おっ、それはいい」と快諾が来た。
 湯浅駅に車を置いて(駅の駐車場は1日置いても500円ということは事前に調査済みだ)8時22分発の電車に乗って 海南駅に降り立った。駅の近くのファミマで食料と飲物を調達して、藤白神社に向って歩き出したのは9時過ぎであった。
 かつて熊野一の鳥居があったあたりは、今も海南市鳥居という地名で残っている。町並みにも古道の名残がわずかに感じられる。JRのガード下を過ぎてしばらく行くと左手に祓戸王子跡があったので立ち寄る。霊域の手前にありケガレを祓う場所だったようだ。元の道に戻って少し行くと右手に鬱蒼とした林に囲まれた鈴木屋敷跡がある。鈴木氏は熊野のガイドとしてここに移り住み、都からの人々を案内したとある。 全国の鈴木姓が一堂に会することでも有名だ。
 早くも藤白神社だ。元の藤白王子でここからが早くも熊野聖域の入り口としていたようだ。九十九王子の中でも格式の高い五体王子で、1000年前の後白河や後鳥羽の御幸も皆ここで一泊したと言う。大きな楠が何本もあって市の天然記念物となっている。
 お参りを済ませて神社の境内を出て少し行くと、有間皇子の墓があった。謀反の疑いをかけられてわずか19歳で処刑され、皇位継承争いの犠牲になった悲劇の皇子だ。その墓の向こうには関電海南火力発電所の紅白の鉄塔が見えている。
 さて、いよいよ藤白坂にとりつく。土道が古道の雰囲気をかもすが、みかんや琵琶の畑が右眼下に見える。道沿いには1丁(109m)ごとに丁石地蔵が奉られ、花壷には新鮮なビシャコがさされていた。18個もあるというのに誰がさしているのだろうか、水を運ぶのさえ大変だろうに。
 やがて杉の植林の中を進むと放置状態の竹やぶが道沿いにまで進出して、古道にも小さいタケノコが頭を出している。そいつを蹴飛ばしながら坂道を進む。次第に暑くなって来た。筆捨松まで来ると、先の一行が休憩していた。我々もそこで休むことにした。筆捨松の由来は熊野古道に詳しい誰かのHPにお任せするが、 うつ伏せで見つかったと言う硯石があり、枯れてしまった筆捨松を偲ぶように数本の若い松が植えてあった。
 Tシャツ一枚になって再び歩き出し、しばらくすると峠に出た。岩峰寺があり、この寺の裏が御所の芝と言われる熊野古道ナンバーワンの 美景だ。紀伊水道と淡路島が一望だ。夕日百景のモニュメントもある。
 寺に戻り、最近できたようなきれいな公衆便所で用を足し、加茂谷に向けて下り始めるが、こちら側には道路もあり民家もある。一度谷に下りて再び 昇るであろう一坪あたりの民家が眼前に見えている。みかん畑の中の急なつづらおれの小道を、踏ん張りながら下るが、きついので時々後ろ向きになったりもした。10年ほど前に富士山を下った時のことを思い出した。
 やっとのことで橘本の在所に下りる。ここは紀州みかん発祥の地といわれ、地名にもある橘はミカンの原種で、神話の時代に田道間守(たじまのもり)が 床世の国から持ち帰ったといわれる。所坂王子跡は、現橘本神社で、田道間守を奉っている。お菓子の神様として信仰が厚く、境内の数枚の石盤には 寄進をした全国の菓子メーカーの社名が書かれている。明治製菓、グリコ、ロッテ、おたべ、駿河屋、フルタなどなど。妻はミカンの豊作を祈って、田道間守の社殿に100円も投じて祈願した。
 しばらく休んだあと、一坪川を遡る。妻は子供の頃の同級生や会社にいた頃の同僚が、このあたりに住んでいて何度か来たことがあって 「あの頃とは違って、随分道が広くなったし町並みがきれいになった」と感心しきりだった。一坪の町は道路の左側を一坪川が流れていて、道路の右側に民家があるが、その川向かいにも民家が並んでいて、民家にそった道路がなく、ほとんど家1件ごとに橋が架かっている。数百メートルの間に30ほどの橋がかかった日本でも珍しい景色だ。それほど、当時の往来がにぎやかだったことも伺い知れる。
 やがて家並みもなくなり、ミカン畑の中のコンクリートの急坂となる。車も通れる道だが四駆でないとムリだろ、というような急坂だ。苦笑いしながら 喘ぎながら登る。竹の杖にすがりついて妻も喘いでいる。もう11時30分を回って相当経っている。12時まで頑張ろうとしたが、あまりにも キツい坂続きで一息入れるため、道ばたに腰掛けた。妻が「あそこで先の人たちが休んでる」と言った。30メートルほど先の地域の集会場の前で 休んでいたので、我々もここで昼食とした。ファミマのサンドイッチとおにぎりを一個ずつ、お茶で頬張った。眼前の山のみどりが既に夏色を帯び、強い 陽光の降り注ぐなか、それでも格別のうまさだった。
 20分ほど休んで、前の一行がいっこうに(シャレ)動く様子がないので追い越すことにした。中には横になって眠っているやつもいた。これは 追い越して正解だったなあと横目で見ながら、しかし、その先には最後の地獄坂が待っていた。こんなに長い急坂の先には民家なんぞあり得ない、あったとしても いったいどうやって暮らしていけるのか。ましてや、水などないだろう。と思いながら、胸突き八丁を登りきったところに突如として現れた沓掛の集落。15軒ほど あるだろうか。妻が和歌山県発行の「聖なる森熊野古道を歩く」のガイドを見ると「民家の間の急な上り坂」と書いている箇所があって、しかしそこは、もうすでに通り越していると思っていたのだが、実はここ沓掛の集落だったのだ。今でこそ自動車があるのでそれなりにも生活はできるだろうが、それ以前、どうやってここまでの行き来ができたのか、想像できない。ムリ。
 その集落も少しの間の平坦地にあって、そこが終わるとまたすごい上り坂。でも、周りはミカン畑。よくも耕したり、暮らしたりと恐れ入る。コンクリートの 道が終わり、土道になって、周りが樹木で覆われたトンネルのような道を登りきると、拝ノ峠に出た。頂上には車道があり、ちょうど車が一台通り過ぎた。
 この峠からは、南に行けば熊野古道が有田方面へ、西に行けば下津の長保寺へ下りていける。我々は万葉の歌碑を見ながら有田川方面に向う。しばらくゆるやかなコンクリート道を歩いて、やや下ったところに蕪坂塔下王子があった。妻はここで、藤白神社でもらったパンフにスタンプを押した。 少し下ると太刀の宮の祠がある。これは真田幸村の名が出てくるので戦国時代のものか。
 また少し下ると爪書地蔵(金剛寺)がある。弘法大師が爪で、自然石に阿弥陀仏と地蔵如来の絵を書いたと伝わるが、さすがスーパーマンの空海だ。鋼鉄の爪を 持っていたのだ。ここまでは下から車道が来ている。つづらおれの車道を下りていく。おそらく昔の熊野道をなぞって広くし、コンクリートを張ったものだろう。 道を違うことなくみかん畑の中を下り続けて宮原町の山口王子までたどり着いた。宮原駅まで1.7キロの表示があった。それからは民家の中の道を歩くが 道も家もきれいに整備されて、旅人の心を和ませるような配慮が見受けられた。宮原駅近くには「熊野古道ふれあい広場」があって、地元のギャルが 数名意味もなくタムロしていた。少しだけ腰掛けて駅に向った。宮原駅には13時40分に着いた。今日の行程14.4キロメートルを4時間40分での走破だ。  
<2009.5.30>
 


 
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