● エッセイ ● |
毎年のことながら、♪雲はわき光あふれて♪と、“栄冠は君に輝く”のメロディーが流れるたび 30数年前の、合宿所から見たあの夏の日の夕焼けを思い出し、胸が熱くなる。 それは昭和42年暮れの寒風吹きすさび雪さえ舞う、冬のグランド造りから始まった。部員も 10人ほどで、大石、小石がゴロゴロと混ざった土をフルイにかけ、一輪車でダイアモンドに運び、 均して押さえるという作業が何日も続いた。年が明けると、横山監督が毎日行商する清水町で、 走るばかりの合宿を行った。長距離走が得意でない私には、校内マラソン大会で1位、2位を争う中山 (現二之段)や野原がいたので、つらい毎日であったが、慣れるにつれ苦しさも段々と軽くなって いった。 春先には整備されたグランドでノックの嵐で、100本、200本と続けているうちに過呼吸となり、 ゼーゼーヒーヒーと、初めて死にそうな体験をした。さすがにこの時には、絶対逆らえない監督を 相手に「待って!」を要請したことを覚えている。 やがて寒さも緩んでオープン戦が行われるころになると、これだけ練習してきたのだからどこ にも負けない、という気持ちが現れていた。しかし、練習していたのはどこのチームも同じであった。 初の選抜出場で、ベスト4の好成績を残して帰ってきた、尾藤監督率いる箕島高校と練習試合を することになり、私が先発で投げたが、後にライオンズのエース、監督を務めた東尾を始めとして 強打者揃いで、ボロボロに打たれて確か12対1で負けた。東尾は3番打者で、1打席目はカーブを 決め球にライトフライに討ち取ったが、東尾は一塁を大きく回って三塁側ベンチに帰る途中、私の 側を通り「ナイスピッチ」と声をかけていった。“この俺を討ち取ったのだからたいしたもんだ”と 弱者に言うように。ムッときたので、次の打席も同じようなパターンで追い込んでからカーブを投げ たら、ものの見事に右中間のネットの向こうに運ばれてしまった。この時、箕島の4番打者は上田善行 氏で、後に同じ会社(丸善石油)の人となった。 4月も半ばであったと思うが、一塁の守備練習で私ともう一人がノックを受けていた。私の番が 終わって後ろに回ろうとした時に、前の者がトンネルをした球が、私の右足のくるぶしの上に当た った。相当痛かったが打ち身だけだと思い、しばらく静養したが痛みがとれないので、数日後、誰か が怪我をして整骨院に行くと言うので、一緒に診てもらったら骨に“ヒビ”が入っているという。 帰りはギブスで固定されて、それから約1ヶ月静養した。もういいだろうと練習を始めたら、やはり 痛い。再度、診てもらったら今度は“完全に折れている”という。結局、2ヶ月もかかって夏の大会を 目前にして復帰した。今思うと、冷や汗ものだった。 夏の大会は第50回の記念大会であった。県大会では、1回戦は吉備高校に、2回戦は那賀高校に勝ち、 3回戦では、翌年南海ホークスに入った薮上を擁する向陽高校と対戦、善戦したが地力の差が出て敗退 した。私は那賀高校との試合に先発完投し、向陽高校戦では先制となる2点タイムリーの3塁打を打ち、 声援に応えることができた。 戦い終えて帰り、合宿所となっていた高台にある野球部長の教師の家から見た真っ赤な夕焼けが、 やり遂げたという満足感を伴って、やけに美しかった。 その後、会社に入って随分長い間、野球と共に歩んできたが、やはり原点は高校野球にあり、 2年の夏まで軟式野球にいた私を、わざわざ津木の家まで遠い道のりを、監督とチームメイトが勧誘に 来てくれて、苦楽を共にするようになったのであるが、今思えば、あれが私の人生を大きく左右する ほどのターニングポイントであったように思う。その横山征支郎監督も、チームメイトの野原敬一郎君 も今は鬼籍の人となった。
昭和44年卒業 萬ヶ谷 哲
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