仏事あれこれ浄土真宗本願寺派の門徒のための基礎知識 (その1)
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浄土真宗の仏事・法事は何のために行なうのか? ここでは、多くの方々に浄土真宗を知って頂くため、さまざまな情報をご紹介しております。 日本の歴史や日本人の生活に多大な影響を与えてきた仏教。歴史の中で多くの宗派が誕生しました。浄土真宗の教えや仏事を、当サイトで全てご紹介できるわけではありませんが、他宗派には見られない、浄土真宗の特徴などを中心にご紹介して参ります。 浄土真宗の特筆すべき点として、浄土真宗の中に多数の流派が存在するという点が挙げられます。 大別すると、東・西の本願寺派に分けることができ、この流派の違いで、後述する葬儀や仏壇の祀り方など、同じ浄土真宗でも仏事形式が異なってきます。なぜ、このように多数の流派が存在するようになったのでしょうか。 端を発するきっかけとなったのは、親鸞聖人の遺骨であります。親鸞聖人の遺骨は鳥辺野の北・大谷の地に納められました。親鸞聖人の遺骨安置するための廟堂(びょうどう)を吉水の北へ建立しようと、末娘の覚信尼(かくしんに)は再婚相手である小野宮禅念と共に、関東の門弟らにも働きかけ、文永九年(一二七二)、廟堂(びょうどう)を建立します。そして初代の留守職に覚信尼自信が就きました。弘安六年(一二八三)、覚信尼は自分の死期が近いことを悟り、長男の覚恵(かくえ)に留守職を譲ろうとしますが、再婚相手の小野宮禅念の実子・唯善(ゆいぜん)も留守職の座を得ようと争いが起こります。この争いの結果、唯善は覚恵を廟堂から追い出し、留守職の座を得たのでした。追放された覚恵には、覚如(かくにょ)という実子がおり、今度はこの覚如が留守職の相続をめぐって訴訟を起こします。正安四年(一三○二)、この争いにようやく決着が付き、覚如が留守職を継承します。覚如は単なる留守職に留まるばかりでなく、自らを親鸞聖人の正統な後継者とし、廟堂に「本願寺」の額を掲げて寺院と化してしまいました。覚如のこの行動に、関東の門徒達は反発しました。彼らは親鸞聖人の廟堂(びょうどう)ではなくなった本願寺に対し、上洛して参拝することを止めたのです。ここに、歴史的に最初の本願寺の分離を見ることができます。覚如には実子で存覚(ぞんがく)という長男がいました。存覚は覚如の本願寺中心主義には固執せず、西国に新しい門徒を増やそうという考えを持っていました。このような行動が、後に本願寺が他流派と合流し、さらなる流派を生み出すきっかけになったのです。しかしながら、父である覚如は存覚の行動を良しとせず、存覚を本願寺の後継から外したのでした。 親鸞聖人の弟子の多くは関東の各地に散らばり、それぞれの地域で門徒集団を形成していました。その中でも有力な集団としては、高田門徒、鹿島門徒、横曽根門徒などです。高田門徒の専修寺は、古くから浄土真宗の総本山という役割を果たしていました。また先に説明した存覚の影響により、越後では仏光寺を本寺と仰ぐ仏光寺派と三門徒派が拡大、北陸では出雲路派、山元派、誠照寺派が頭角をあらわし、その他にも興正派(本山は京都府・興正寺)、浄興寺派(本山は新潟県・浄興寺)、木辺派(本山は新潟県・浄興寺)などが各地で頭角を表してきました。これらは総称して真宗十派と呼ばれ、真宗連合を形成しています。
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