浄土真宗の葬儀作法
はじめに
ある門徒さんから、真宗の葬式について質問がありました。親戚のの葬儀に行ったそうです。その家も大谷派の真宗だったそうで、葬儀の後、考えてみたら、どうしてこんなことをするのだろう、と疑問に思うようなことが多々あったそうです。どうやら、迷信めいた俗習に詳しい人がいて、あれをせなかんこれをせなかんと、いろいろ話されていたようです。私たち真宗門徒にとって必要の無い作法まで含めて、です。その門徒さんいわく「細かいことはともかく、葬儀に関して重要なポイントだけでも、きちんと勉強しておけばよかった」ということでした。つまり、葬儀の場で見受けられる俗習の意味が分からず、なされるがままになってしまい、自分ならこうする、と判断する余地がなかった、ということでした。そして私自身も、そういうお話をお聞きして、普段からの葬儀作法への取り組みは、とても大切なことであることを改めて感じさせられました。葬儀は、私たちの生活の上で、身内の死というきわめて大きな出来事にまつわる行事でありながら、そのあり方については、事前にきちんと取り組むことがほとんどない行事であります。それは「人の死にまつわる話などエンギでもない」とか、「その時が来たら考えればいい」というような思いが私たちのどこかにあり、真正面から取り組むのを阻害し続けてきた結果、とも言えましょう。そして、いざ葬儀となった時には、中心となる家族にきちんと取り組む時間的余裕など無く、その場しのぎに終始してしまう、というのが実状ではないでしょうか。葬儀は、その性質上、予定など出来ない行事ですから、常日頃から、いざという時のためにきちんと取り組んでおかねばならないことと思われてなりません。以下に、門徒の方々のために葬儀の方法などを参考に示したいと思います。
・ お仏壇はご本尊・阿弥陀仏をご安置する所。
・ お仏壇は死者のためでなく、生きている私のためにある。
世間には「お仏壇は死んだ人を、おまつりするところ」と思っている人が多いが、阿弥陀仏を安置するところだから、仏壇ということをまずはっきりさせておきましょう。たしかに、亡き人をお仏壇で偲ぶことはある。それは、この阿弥陀のお浄土へ往生していかれたことを偲ぶということです。お仏壇を安置するのは、私たちが阿弥陀さまを心のよりどころとして、いつも身近にあおぎ、阿弥陀さまにみちびかれながら生活をするためです。南無阿弥陀仏」は、仏さまの私へむけてのよびかけです。「案ずるなよ、われはそなたの親だよ。まかせよ。」の呼びかけです。私たちはその呼びかけに、母に呼ばれて子供が「母ちゃん」とい呼ぶがごとく、安心して「ナムアミダブツ」と応えるのです。
したがってお念仏は、仏と私との呼応のひびきです。老、病、死のわずらい多い人生を、仏に呼ばれ仏を呼びつしながらすごすのが念仏生活です。ここを「念仏成仏これ真宗」とも、親鸞さまはもうされています。
真宗式の葬儀の作法
枕勤め
枕勤めでは、まず遺体を寝かせて安置する場所を自宅に確保することが先決です。出来る限りお内仏のある部屋にしましょう。もし、お内仏のない部屋に寝かせることになる場合、必ず手継寺にその旨を伝えてください。枕勤めの際に安置する臨時のご本尊が必要となってくるからです。そして、そのご本尊を安置する場合にお供えすべき仏具を用意します。適当な台の上に花瓶・香炉・燭台を置き、花瓶には樒などの青葉を挿しておきましょう。そして、お勤め用の線香と白ローソクを用意します。他に、弔問に来られた方々への焼香用香炉を用意し、お盆もしくは小机の上に置いておきます。もちろん、火種用の香炭と刻みの香も用意しましょう。この花瓶・燃香用香炉・燭台・焼香用香炉の4種は、枕勤めの際の基本の仏具であります。 近頃はこれらの仏具が含まれたセットを、葬儀社が「枕飾りセット」と称して用意してくることが一般的となりました。もっとも、陶器製の道具だったりして、当派の正式な仏具として使えるようなものではありませんが、仮に使用する分には問題ないでしょう。ちなみに、この枕飾りセットには、仏事の場であるご本尊の御前に置くべきでないものも混ざって、ワンセットになっている場合があるので気を付けましょう。仏具として必要ないという程度ならいいのですが、仏事の意味を見失うような重大な誤り/迷信に基づいた飾りつけを、それと知らずに行ってしまう事にもなりかねません。以下、その具体的な例を挙げておきましょう。
○置いてもかまわないが、置く必要も無いもの
@ 遺体の枕元の灯明。これは弔問された方が故人と対面するときに使用した照明の名残です。大きなローソクに灯をともし続けるのですが、電灯を使用する現代では必要ないものでしょう。
A不断香用線香。遺体の布団近くに置きます。これは、遺体からの死臭に心惑わされないようにするための配慮であります。絶えず線香を燃ずる関係上、今般は渦巻き型のながーい線香を使用していることが多くなりました。この場合香炉に入れては使えないので、この線香用の灰皿とつり下げ金具を使用しています。現代ではドライアイスで遺体の保護をするので、以前ほど神経質に使用する必要はなくなりました。
B枕元に飾る樒(枕花)。これは、通常@の灯明や、焼香用香炉と一緒に置かれています。香炉、燭台とくれば、花瓶も置きたくなるのが人情というものでしょうか。これについては、お内仏のあるお宅では「枕飾りセット」の花瓶が余ってしまう、ということも大きく影響しているようです。わざわざ置く必要はありません。これらはいずれも、置いても構いませんが、無くてもいいものです。逆にもし置かねばならないという強いこだわりがあるとするなら、自分勝手な意味付けをしたり、迷信に陥っている自分に気付くこととなるでしょう。
○置いてはいけないもの
仏事の意味を見失う重大な誤り/迷信に基づいた飾り付けです。
・刀や剃刀などの刃物。枕元や布団の上に置く魔除けと言われています。必要ありません。帰敬式(おかみそり)用の剃刀として用意する向きもあるようですが、それは住職が懐に入れて持参すべきものであり、帰敬式執行以外の時に置いておくものではありません。
・一膳飯。死者の魂の安寧のためと言われています。お仏供とは異なる意味で飾るものです。必要ありません。
・六文銭などの旅装束。死出の旅に必要と言われている。俗信に由来しています。必要ありません。
・逆さ屏風などの逆さごと。死が日常茶飯事とならないようにすることと言われています。他にも葬儀ならではの特殊なしきたりは、ほとんどこれに該当します。必要ありません。 これらはいずれも、単に仏事の飾り付けとして必要ないばかりでなく、ご本尊および死者を蔑ろにするような重大な誤りであり、人間の不安な心を麻薬のように甘く包み込む迷信に由来するものです。真宗の葬儀として懇ろに行うならば、本尊への尊崇とともに、勇気をもって訣別すべきものでしょう。
通夜は、枕勤めから葬儀・火葬までの間、昼夜を問わずに皆で見守るという風習から来たものであります。ですから本来はお内仏のある自宅部屋で葬儀の当日まで夜通し行ない、お勤めも弔問者自身が行ったものです。そして、そこから葬列を組み、葬場に赴き、寺院僧侶の手でお勤めをしたわけです。しかしながら現代では、葬儀の前日には、入棺と共に葬儀会場の準備をし、そこに棺を安置して通夜を行い、葬儀前日の夕方にお勤めをする形となっています。ですから通夜のお勤めは、事実上葬儀会場(葬祭会館・公民館・寺院・自宅など)で寺院僧侶の手によって行われることが多くなりました。ですが、本来は弔問者自身が見守りやお勤めをしてきた場でありますから、お勤めの心得のある方は、ぜひ一緒にお勤めをしていただきたいと思います。
お通夜のお飾りについては、枕勤めの準備と同様、さしあたって特別なものを用意する必要はありません。納棺後ならば布団の代わりに棺を安置し、枕勤めと同様にお内仏ご本尊に向かってお勤めができるようにします。
具体的な注意点は枕勤めの項に準じます。 葬儀前日には、葬儀会場も準備され、葬儀当日と同じお飾りがされている場合がほとんどですので、事実上、葬儀当日のお飾りに準ずることとなるでしょう。この場合の具体的な形は葬儀の項を参照してください。どちらにしろ、
必ずご本尊を中心としてお勤めの出来るようにする という基本は変わりません。
また、お勤めをする場合、焼香用香炉が準備してある場合がありますが、お勤めの最中はお焼香をするのを控えます。 これは、自分が声をあげてお勤めをしている間に焼香することはなく、お勤めの前もしくは後で焼香をする、というごく自然な姿に準じたことです。自らお勤めをするというのが本義ですから、他人にお勤めさせてその間に焼香をするというのははなはだ失礼なこと、と言わねばなりません。お勤めの心得のあるないにかかわらず、自分がお勤めの主役であるという心持ちで、お勤めの最中は共に声を合わせるか、もしくは共にお勤めをする心持ちで静かにお勤めの時間を過ごしていただきたいと思います。二度とない通夜の席です。後でこうすれば良かったと後悔することのないよう、出来るだけのことをいたしましょう。
葬儀は、本来「自宅での出棺勤行・葬列を組んでの野辺送り・葬場に飾り棚を置いて行う葬場勤行」と、順に場所を移動して行う儀式全体を指すものでした。現在は、葬祭会場で、出棺前にまとめてお勤めをして葬儀とし、野辺送りや火葬場での勤行は略されています。
葬儀の際のお飾りは、現在では背の高い葬儀壇を使用する場合がほとんどですが、いずれにしろ、枕勤めや通夜と同様、ご本尊を中心としたお飾りというのに変わりはありません。
もし、葬祭会館などご本尊のない場所で葬儀を行う際には、手継寺の指導を仰いでください。
具体的な飾り方で気を付ける所を挙げますと、@白幕などに隠れないよう、ご本尊を中心に安置します。
A白幕には家紋などを入れません(無地にします)。
B法名・遺影はご本尊の脇となるように置きます。その際はご本尊を隠すことのないよう下段に並べて置くのが良いでしょう。
C華束・根果餅にあたるお飾り以外には余分な供物を置きません。特に、迷信に関わるものや、一膳飯・剃刀なども置きません。
D生花を飾る際には、ご本尊の御前にふさわしいお飾りを心がけましょう。例えば、法名・遺影をことさらに際だたせるような飾りを避けましょう。もちろん、ご本尊が隠れるほど極端なものはいけません。
Eその他周囲に家紋の入ったものを飾らないようにします。家紋の入ったお骨箱なども置きません。
F燃香をする場合は、線香を一本立てにしません。香炉に入る長さにし、灰の上に置くようにして燃じます。
Gイラストや説明にないものは、特殊な例を除き、おおよそ葬儀壇には置いてはいけないものです。詳しくは手継寺に相談してください。
その他、自宅や会場の門前にも葬儀式にふさわしいお飾りをすることとなります。夜間の弔問者のために用意した提灯などもお飾りの一つとしてよく設置されます。
この場合、真宗の葬儀にふさわしくない言葉や家紋などを掲げないように気をつけてください。 たとえば、御霊灯や○○家などの文字や家紋入りの提灯を掲げることは慎み、何も書いていない無地のものにしたり、法名や法語など、真宗の葬儀にふさわしいものにします。 また、道中の案内看板はともかく、入り口に置く式場看板においても前と同じ理由で○○家でなく個人名を記したものにすべきです。 さらに付け加えると、幕や提灯にむやみに「忌」の字を使うのも避けます。特に忌中幕や忌中簾は死を穢れとした考えから来たもので、ある種の境界線という意味で使われてきました。
清めの塩と同様、真宗の葬儀をないがしろにする由々しき間違いとして気をつけたい所です。細かいことにまで注目すれば、世間的な配慮などまだまだ気をつけねばならない所はたくさんありますが、とりあえずここでは真宗の葬儀式としていかなる配慮に目を向けるか、に焦点を当てております。
世間的なことは各々の事情での違いが大きいというのも理由の一つです。 私たち真宗門徒にとって、仏事としていかに大切に葬儀式を行うかは、事情を超えて共通する課題でしょう。 今まで無宗教の告別式のごとく、遺影を中心にするお飾りを続けてきた所では、いろいろ変更が必要となり、大変かもしれません。
しかしそれは、残念ながら私たち真宗門徒自身が、本来先達が大切にしてきた姿勢を忘れ、なおざりにしてきたことにも責任があります。 私たち一人一人が、きちんとこの形式にある大切な意義を理解し、ないがしろにすることの無いよう心に刻みつけておくことが大切です。
火葬が終わり、還骨・無常講のお勤めなどを一通り終えた後は、自宅に中陰壇を設置します。お内仏には白を基調とした打敷を掛け、銀または白のローソクを使用し、花瓶には華美な配色を避けたお花を飾ります。これは、還骨・無常講のお勤めをするときと同じ飾り方です。
中陰壇とは、中陰の間、お内仏の傍らに設置する壇のことを言います。還骨のお勤めを終えてから満中陰までの期間中、故人のお骨をこの壇に置き、法名を掲げ、併せて燭台・花瓶・香炉を置きます。
花瓶には樒を挿し、燭台には銀または白のローソクを使用します。原則としてそれ以上のものを置く必要はありませんが、ここに法名(白木位牌)・遺影を併せて置くことが一般的となっています。あくまでも
お内仏を中心とし、その傍らに置く壇です。お内仏をさしおいて 中陰壇だけをことさら飾り立てることの無いようにしましょう。
たとえば、お花を左右に飾りたいときは、お内仏を無視して中陰壇のみの左右に飾るのではなく、 お内仏と中陰壇を一緒にするような形で左右に飾るべきでしょう。中陰壇が中心にならないように飾るわけです。ちなみに、
中陰中のお勤めもすべてお内仏中心でお勤めをします。 ですからもちろん おリンはお内仏の方に置きます。
ちなみに、自宅にお内仏のない場合、 まずは住職に相談して下さい。事情が千差万別ですのでこれと規定することは出来ませんが、よく見かけるやり方として、葬儀社が用意する中陰壇用の壇飾りをお内仏の代わりにする方法があります。その場合、中央上段にご本尊を安置します。そして、その傍らにお骨・法名を置き、燭台・花瓶・香炉を置きます。
ご本尊が遺影や法名に隠れるようなことがあってはもちろんいけません。ご本尊については、手継寺の住職と相談して下さい。たいていの場合、新たにご本尊をお受けして安置するまでは、南無阿弥陀仏の掛軸をご本尊代わりにしたり、住職の手にあるご本尊を仮安置したりすることとなるでしょう。
中陰に対する考え方はいろいろあるようですが、 私たち真宗門徒は、亡き人を「諸仏」と尊ぶ身ですから、 中陰中であってもなくても追善供養をすることはありません。ですから中陰は、亡き人への追善供養のための期間ではありません。注目すべきはむしろ私たちの心の方であります。親族を亡くした私たちのための期間。言わば、
私たちのために用意された心の整理のための期間と言うべきでしょう。葬儀は、本当に突然に行うこととなるもので、とにかくやることをこなしていくだけで手一杯となってしまうものです。ですから実際に心落ち着いて身内の死の現実と向き合うのは、葬儀の後しばらくしてからになることでしょう。それを見越して、一週間ごとに法要を行い、その区切り区切りで少しずつ現実を受け止めていく、そのような期間が中陰として用意されている、というわけです。加えて言えば、日常と違う白を基調としたお飾りも、亡き人のためではなく、通常とは違う心持ちの私たちのために用意されたものなのです。
中陰の法要の日取りは、初七日より一週間ごと二七日、三七日‥‥七七日となり、その間に初月忌(初めての月命日)を迎えることとなります。七七日で区切りの法要となりますが、この尾張地区あたりでは五七日で区切りの法要をして、中陰壇を片づける所も多くあります。前に述べたように、
中陰は亡き人の追善供養のために用意されたものではありませんから、期間にはさほどこだわることなく、それぞれの事情に合わせてお勤めすればよろしいかと思います。
中陰を終えたら中陰壇を片づけ、平常のお飾りに戻します。お骨箱は、 お内仏の中には置きません。納骨を忘れないためにも、お内仏の傍らの目の届く場所に置いておくのがよろしいでしょう。なるべく早くしかるべき所に納骨するよう心がけて下さい。
浄土真宗の葬儀では、普段のお勤めでも読むのだろうが、「教行信証」の中からの文章を読む。列席者に小冊子が配られて、一緒に読むのだが、実に風格のある声で読む信者(坊さんよりも上手い、と思ってしまう)もいる。
通夜の席での坊さんの話は、この葬儀を機にして人間が死ぬということを考えて欲しい、というようなことだった。殆ど感銘を受けることはなかった。死ねば、そしてナミアミダブツと唱えていれば、誰でも極楽浄土に行くことができる、というのが親鸞の教えだろう。浄土教は釈迦の教えとは全く違う、ユダヤ教の救済思想の影響を受けて西インドに生まれた宗教である。ローマ帝国の奴隷たちがキリスト教(民族宗教から脱皮した新タイプのユダヤ教)に希望を見いだしたように、戦乱期の日本人は親鸞や蓮如の説く救済に希望を見つけた。親鸞の救済への信念と迫力は、しかし、今の仏教界には全く見られない。
葬儀というとよくいわれるのが、個人とのお別れの場ということです。最近では、葬儀という形式にこだわらず、お別れの会として執り行ったり、いわゆる通夜、告別式といった形での葬儀は行わないようなケースが増えています。形式うんぬんはその人の考え方やいろいろな条件などで違ってもよいでしょう。では、真宗における葬儀の根本はいったいなんでしょうか。それは、「亡き人からの問いかけを聞く」ということに尽きると思います。
真宗では年回法要は故人をしのぶとともに、自らも仏法を聴聞し、仏恩に感謝する行事として行われるものである
葬儀は人生のもっとも厳粛な儀式です。浄土真宗では、故人を偲んで遺族並びに縁故の者があい集まって、共に読経念仏して、尊い仏縁をいただくことがそのゆえんです。したがって、できるだけ浄土真宗にふさわしい儀式としたいものです。
葬儀とは (告別の式ではなく 共に仏縁にする行事)
故人に対する追善回向の仏事や、単なる告別の式ではなく、遺族 知友があいつどい、故人を追憶しながら、人生無常のことわりを聞法して、仏縁を深める報謝の仏事である。全般の荘厳についても、いたずらに華美に流れず清楚簡潔のうちにも、荘重になすべきである。また、各地に行なわれている誤った風習や世俗の迷信にとらわれないよう心がけねばならない。あくまでも、道俗ともに、念仏読誦して故人を偲び、これを縁として仏恩報謝の懇念と哀悼の意を表わす儀式である。(西本願寺葬儀規範より)
「葬儀」とは、葬儀に参列された方のひとり一人が、身近な人の死という悲しい出来事をとおして、真実の教えに出遇うことによって、自分自信の在り方を根本的に見つめ直すことです。
身近な人の死は私たちの心をゆさぶり、今の日常が永遠に続くかのように錯覚して暮らしている私たちに「やがて死んでいく身をどう引き受けて生きていくのか!」と問いかけているのです。
しかし私たちは「安らかにお眠りください」「ご冥福をお祈りします」というような表現で、亡き人に対して心を配ることが「葬儀」であるのだと思い違いしているのではないでしょうか。
大切なことは、亡き人から問われている自分自信の生き死にの問題を念仏の教えに聞き開こうとする心であります。ですから葬儀は宗教儀式として行なわれるのです。
よくある質問
Q
なぜ遺影でなくご本尊を中心に安置するのですか?
A
真宗の葬儀式にある意義を明らかにするためです。普段より、真宗の仏事は寺の本堂やお内仏など、ご本尊を中心とした場で行われますが、先達はその尊前を法座とし、聞法の場としてきました。つまりこれらの場には、仏の教えに出遇い救われる場としてほしい、という先達を貫いてきた願いが込められています。その願いの象徴としてご本尊が中心に安置されているわけです。真宗の葬儀式にも同じように、この亡き人を送り出す場を仏の教えに出遇い救われる場としてほしい、という尊い願いが込められています。ですから真宗門徒の葬儀式はご本尊を中心にしてきたわけです。単に亡き人にお別れをして送り出す儀式ではなく、参列した者全員に対しても、仏の教えに出遇う場となるよう開かれ願われている場なのです。
Q
ご本尊を中心に安置すると、遺影や白木位牌の置く場所が、葬儀壇のカタログとは違う場所になりますが?
A
はい、葬儀壇のカタログでは中心に遺影や法名(白木位牌)が置いてあるのがほとんどですから、違う場所になるのが当然です。 単にご本尊を中心に安置するだけでなく、ご本尊が中心となった葬儀式であることが分かるような飾り方をしなければ、それこそ大事な意味の欠落した葬儀壇となってしまいます。
必ずご本尊を中心に安置し、遺影や法名などのお飾りは必ず中心を避け、なおかつご本尊を邪魔したり隠したりしないように置いてください。
Q
どこかで、葬儀壇にご本尊は安置などしないものだと聞き及びましたが、やはり中心に安置しないといけないのですか?
A
はい。諸般の事情で葬儀壇に安置していない場合もありましたが、原則は変わりません。必ず安置してください。 かつて、屋外の葬儀でご本尊を外に安置することは、かえってご本尊を蔑ろにするような状態となり、事実上不可能でした。
しかしながらご本尊に代わる石塔や名号などを中心にしてお勤めをしたりして、葬儀式全体を通してみれば、ご本尊を中心とした形となっていました。
現代において屋外での葬儀はまずありません。 今やご本尊を中心に安置することに何の制限もありませんから、きちんと中心に安置してください。
Q
葬儀社が、自社手持ちのご本尊の方が立派だからと安置を勧めますが?
A
いいえ。ご本尊は単なる道具ではありません。 葬儀社に任せるべきか、寺院に任せるべきかは言うまでもないでしょう。
葬儀社に手継寺との相談を勧めてください。
Q
ご本尊の御前には、なぜ家紋を飾らないのですか?
A
家紋は、武家の旗印に使われていたように、ある一族/一家を特定し、その「家」を奉ずる(大切にする)意志を象徴するものとして使われてきました。つまり家柄/家系を第一とし、その枠の中にいる人間とそうでない人間を分け隔て、一族で結束する象徴であります。ですから家紋は、我が一族を第一とした場である、と表すものです。家紋を飾るということは、その一族が中心となり、それ以外の者はその一族に招かれて参列する、という意味合いの場になってしまいます。
ご本尊中心の葬儀とは、亡き人の一族であるかないかにかかわらず、すべての者が分け隔てなく平等に亡き人を悼み、そして見送る場であります。
同一姓の一族であるかないかは、死を悼む気持ちの強さとは元来別のことであり、亡き人とのつながりの深さを直接表すものではありません。 そしてなにより、この場を尊い縁として仏道を歩んで欲しいという願いには、一族であるなしなど関係するはずもありません。
誰にでも開かれている、そういう場であることをはっきりさせるご本尊でもあります。ですから、そのご本尊に込められた意味と願いにそぐわない、「家」を第一とし人間を分け隔てする意味を持つ家紋は、真宗の仏事にふさわしくないのです。
亡き人を含めたすべての人に対し、分け隔てのない道が開かれていることをはっきりさせる「家紋無し」なのです。
Q
よく見かける一膳飯・剃刀(守り刀)・一本立て線香には、どんなふさわしくない意味があるのですか?
A
仏事とは違う意味合いが込められた道具だからです。 仏具とは似て非なるもの、と言えるでしょう。 三種ともすべて迷信的理由から供えられています。 一膳飯は死者の魂の安寧のため供えられた魂代わりの盛り飯とされ、守り刀は光りものによる魔よけとされ、一本立て線香は、一筋に上がる煙の様をもって迷わず成仏するようにと願う願掛けの意味があるとされています。
いずれも仏法とは似つかわしくない迷信に基づくものですから、ご本尊そして真宗の葬儀にはふさわしくないのです。
Q
葬儀特有の決めごとには、仏事として疑問に思うものがあるのですか?
A
はい。葬儀特有の決めごとの中には、明らかに迷信に基づいたものであるものを多数聞き及んでいます。 そのほとんどは「逆さごと」と呼ばれるもので、死と日常を切り離したいという思いから、わざわざ日常と逆のことをして縁起を担ぐというものです。ほんの一例を紹介すると、ぬるま湯を作るときに普通は湯に水を足しますが、故人の身体をきれいにする湯潅の時には、わざわざ水に湯を足して作ったり(逆さ水)、故人の枕元に屏風をわざわざ通常と天地反対にして飾ったりするようです(逆さ屏風)。
いずれも葬儀特有のこととするべく、日常はしないこととされています。 つまり、日常はしない、行ってはならないとされていることをわざわざする場合は、すべて「逆さごと」と呼ばれる縁起担ぎと見ていいでしょう。 死は「逆さごと」などで遠ざかったり近くなったりするものではありません。 そういう縁起担ぎをすること自体、仏法そして亡き人を蔑ろにする重大な誤りでしょうし、そうしたいという思い自体も、人間の不安な心を麻薬のように甘く包み込む迷信に囚われているが故のものです。
人間の本当の姿に目を開けとはたらいているのが仏道であります。 仏教徒として、真宗の葬儀として懇ろに行うならば、これらの縁起担ぎからは勇気をもって訣別すべきでありましょう。
「浄土真宗」と各宗派においての葬儀のちがいについて。
浄土真宗は往生をとげた死者に対し、生前の徳を偲び、心から礼を尽くし、死者の解脱をはかる引導作法や追善回向の作法はしないのが建前なので、日常勤行がほとんどそのまま移行する形で葬儀式が形成されます。特色としては各派で細かく相違点があるということ。それに他の宗派が中心においてある授戒と引導がありません。これは普段に信心を抱いていれば、浄土往生と成仏は平生に約束されているから、死者の為に祈ること必要ないとしていることから、祭儀的な事よりも日常の信心の心がけに重きを置いています。
少し難しいのですが、人間にははじめから功徳など備わってないのですが、死者はその死んでいることの事実を身をもって示し、死を迎える準備があるかどうかを私達に教えているので、これを学び取ることで本尊阿弥陀如来に対して報恩感謝し、仏の教えを学ぶ「聞法(モンポウ)」の機会を与えるとなっています。
死人が私達に仏の教えを教えるといったところでしょうか。これを浄土真宗では「還相往生」といいます。
他の宗派とのちがいは亡くなった人は即浄土に往生したのだから、この世をさまようような「霊」の存在は認めていないこと。
死者の旅路である死装束も不要。
亡くなった人は即浄土に往生したのであり、「霊」は認めていない。
死者の旅路である死装束も不要。香典も「御霊前」ではなく、「御仏前」と書きます。
「穢れをきよめる」という考えはないため、浄めの塩も不要。死者はすでに仏であるという考えですね。
遺体は仏壇の近くに安置し、遺体の上に置く「守り刀」は俗信として用いません。浄土往生と成仏は平生に約束されているということは、浄土にいったので何から守るというのかということでしょうか。
死者を礼拝の対象にしない考えがあるので、供え物(枕団子・枕飯)は遺体に供えるものではないと不要となります。
葬儀終了後に設ける宴席を「精進落とし」とは言わない。施餓鬼会はしない。
仏式では必然のような儀礼やしきたりはことごとく否定しています。
焼香も自らの身心を清めるために行うものと理解し、額に戴きません。(宗派で差違がありますが、回数は1〜2回)
線香を用いる場合は、本数を気にせずに立てないで横にします。
戒名は聞法者という意味をこめて「法名」といいます。寺門護持・念仏相続に尽力した人へは院号を賞典としてあたえられ、法名の前に男性は「釈(釋)」、女性には「釈尼」とつけ、道号・位号はありません。近年では女性に尼の字をつけるのは差別だとして、男性と同じにする風潮があるそうです。
また弔電・弔辞で用いてはいけない言葉は、「冥福を祈る」「昇天されて」「泉下の人」 「幽明境を異にする」「草葉の陰の君」など。
枕勤め
お内仏に燈明を点じ、遺体を内仏の近くに安置。法名をすでに死者に授け、「帰命無量寿如来」で始まる「正信偈(しょうしんげ)」などを唱えます。
通夜
納棺の後本尊の前に安置して、「教行信証」の中の七言120句の偈正信偈(しょうしんげ) 、念仏の功徳を賛える念仏讃(ねんぶつさん)、仏を讃嘆した文を唱える和讃(わさん)、「願以此功徳」で始まる回向(えこう)、法話などを執り行ないます。
葬儀
総礼
勧衆偈
短念仏(十遍)
回向
総礼
三匝鈴(さそうれい)-------鈴を小から大と打ち上げます。
路念仏------------------南無阿弥陀仏四句を一節とする念仏。
三匝鈴
導師焼香
表白--------------------「無常の嵐は時を選ばず」で始まります。
三匝鈴
弔辞
正信偈------------------喪主以下焼香。
和讃--------------------「本願力にあいぬれば」等で 始まります。
回向
総礼
告別式
導師入場
開式の辞
読経
一般焼香
導師退場
親戚代表謝辞
閉式の辞
・「法名」と「戒名」は違います。
仏事というものは、一見するとどの宗派も同じように見えますが、宗派によって形態が違い、意味合いも違っています。
浄土真宗では、戒名とは言いません。戒名は、厳格な規律(戒律)を守って仏道修行する自力聖道門(しょうどうもん)の人々につけられる名前であり、阿弥陀仏の本願力に信順して生きる私たちがいただく名前は「法名」です。従って、「法名」には修行の経歴を表す道号(いわゆる、四字や六字の戒名)や、修行の形態を表す位号(信士・居士・信女・大姉等)はありません。「法名」は「釋〇〇」というただそれだけです。字数が多いほど値打ちがある訳ではありません。
近年、核家族化や若者の都市部への流出により、浄土真宗の教えについて伝承できなくなりつつある。特に東京を中心とする首都圏では、元々が浄土真宗の土地柄では無く、所属する寺が浄土真宗系であっても、儀礼・作法を他宗と混同している門徒が多い。このことにより、多くの門徒の子孫達が、(阿弥陀如来による)他力本願の意味や、浄土真宗独特の儀礼・作法が途絶えつつある。今や「門徒をも知らず」なのかも知れない。
門徒物知らず(もんとものしらず)は、浄土真宗の信者(門徒)に対して他宗の信者が「仏教の作法を知らない」と批判する際に使われる言葉。元来は「門徒もの知らず、法華骨なし、禅宗銭なし、浄土情なし」という各宗派を揶揄する地口の一句。「門徒物知らず」とは、阿弥陀仏一仏に帰依をして、他の神仏を顧みないために、土地の神仏に関わる儀礼や風習にも関心を持たず、死者儀礼などに関わる習俗にも従わない真宗門徒の姿を、他宗の立場から「物知らず」と揶揄するものである。しかし、他宗からは「物知らず」として揶揄される真宗門徒の特徴も、江戸時代の儒学者、太宰春台が『聖学問答』で「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専らにして他の仏神を信ぜず、いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても呪術・お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」と書いているように、評価するむきもある。
他説として、「門徒物知らず」という言葉は、本来は「門徒物忌み知らず」や「門徒物忌みせず」という言葉であったが、それが誤って伝えられたものであるという説が、真宗の説教などで語られることがある。しかし、「門徒物知らず」より前に「門徒物忌み知らず」などの言葉が存在していたことはなく、近年になって「物知らず」に対抗する言葉として生み出されたと考えられる。物忌みをしないことは、真宗門徒の特徴の一つではあるが、「門徒物知らず」は、物忌みをしないことだけでなく、様々な真宗門徒独特のあり方を表した言葉である
浄土真宗の中陰中の法要は、近親者が亡くなる事によって、生死(しょうじ)の意味をより深く考え法にふれる為の法要である。他宗の様に、成仏を願う為の法要ではない。
葬儀の種類
自分らしい葬儀をしたい、故人らしい葬儀をしたい、と思う人が増えています。また、特別な葬儀をしたいというわけではなくても、一体、葬儀にはどんな種類があるのか、あらかじめ知識を持ってから葬儀社と話をすれば、自分達の希望を伝えやすいでしょう。
◆「葬儀」、「告別式」
本来、「葬儀」と「告別式」は別のものですが、現在では一つの流れの中で行われることの方が多いようです。「葬儀」は故人の魂を送るために行われる宗教的な儀式です。一方、「告別式」は、友人や知人が故人と最後のお別れをする社会的な式典です。また最近では、葬儀よりも「通夜」の方が会葬者が多くなるという逆転現象も増えてきています。
一般の葬儀、告別式を行う場合にも、祭壇の飾りつけや流す音楽に工夫をしたり、ビデオや記念コーナーを設置するなどして、故人の個性を表現することはできます。
◆ 「社葬」、「個人葬」
会社の社長や会長などが亡くなった時や、社員が殉職した時などに、会社が主催して行うの葬儀が「社葬」です。これに対して、会社ではなく遺族が主催して行う一般的な葬儀が「個人葬」です。遺族と会社が合同で行う場合は「合同葬」と言います。また、葬儀は会社以外の団体が主催することもあります。これらは総称して「団体葬」と言います。
◆ 「密葬」、「家族葬」
「密葬」と「家族葬」はどちらも主に親族や親しい者だけで行う葬儀ですが、別のものです。「密葬」は「本葬」とセットで行う葬儀です。故人が有名人であったり、社葬など、多くの会葬者がいる場合には、まず、親族や親しい者だけで葬儀を行うことがありますが、これを「密葬」と呼びます。そして後日、一般の参列者を招いた「本葬」を行います。
これに対して、「家族葬」は単独で行う葬儀です。家族や親しい友人など少人数で行います。「家族葬」を行う場合、会葬者だけでなく、他の方々へも、失礼のないようにお知らせをして、弔問・供花・香典などの辞退をする必要があります。
一般には葬儀の後に火葬を行いますが、火葬の後で葬儀を行う地域もあります。これを「骨葬」と呼びます。「密葬」後に火葬にふして、「本葬」は「骨葬」として行うこともあります。
◆ 「仏式葬儀」、「キリスト教葬儀」、「神式葬儀」
「葬儀」はどの宗教で行うかによって「仏式葬儀」、「キリスト教葬儀」、「神式葬儀」など様々な形式があります。また、創価学会は僧侶なしの「同志葬(友人葬)」を行います。各新興宗教にもそれぞれの形式があります。
◆市民葬・区民葬(自治体葬・規格葬)
各種の自治体が、提供している低価格で簡素な葬儀です。しかし、一般に、福祉ではなく、補助金が出ているわけではありません。自治体自身が施行を行うところもありますが、大抵は提携する一般の葬儀社が施行します。亡くなった方か喪主が自治体に住んでいる場合に行えます。
◆「直葬」(葬儀をしない、火葬のみ)
葬儀を行うことには法的な義務はありませんので、葬儀をしないことも可能です。葬儀をしない場合も、亡くなった場所からの搬送、納棺、安置、死亡診断書の提出と火葬埋葬許可書の取得、火葬が必要です。ですから、葬儀社への依頼が必要になり、費用もかかります。この場合、身内だけで火葬に臨みますが、火葬時に僧侶にお経をあげていただくこともできます。このような葬儀を「直葬」と呼ぶこともあります。この形を選ぶ人が増えてきています。
◆ 「無宗教葬」、「偲ぶ会(お別れ会)」、「ホテル葬」
宗教者を招かずに、宗教色を抜いた自由な形で行う葬儀を総称して「無宗教葬」と呼びます。葬儀というよりも、告別式、追悼式というべき形式です。焼香の代わりに献花を行い、祭壇には花と遺影を飾り、音楽を流すことが多いようです。
無宗教で行う告別式を一般に「偲ぶ会」、「お別れ会」、「友人葬」などと呼びます。「密葬」の後の「本葬」、「社葬」を「偲ぶ会」、「お別れ会」として行うこともあります。「偲ぶ会」、「お別れ会」はホテルやレストランで行うこともあります。ホテルで行う葬儀・告別式は、「ホテル葬」と呼びます。
◆「自由葬」、「音楽葬」
従来の葬儀の形式にこだわらずに自由な発想で行う葬儀を「自由葬」、「プロデュース葬」と呼びます。無宗教で行う場合もありますし、そうでない場合もあります。
生演奏やCDなどによって音楽を「献奏」するような、音楽を重視した葬儀を「音楽葬」と呼びます。
◆ 「自然葬」、「散骨」、「樹木葬」
海や川、山、宇宙などに散骨を行って自然にかえすことを「自然葬」と呼びます。通常の葬儀を行ってから、遺骨の一部を、簡単な儀式と共に散骨することが多いようです。散骨は、扱いのある葬儀社を通して依頼することができます。葬儀の後で、直接散骨専門の業者に依頼することもできます。
樹木の生い茂る森の中に、樹木を植えたりして埋葬することを「樹木葬」と呼びます。「樹木葬」が行えるのはあくまでも墓地として登録された場所です。「樹木葬」は葬儀というよりも遺骨を埋葬する墓地の種類です。
◆「生前葬」
本人が生きているうちに行う葬儀です。まだ、珍しいですが、有名人などにこれを行う人が増えてきています。お世話になった人に自分で直接お別れを言うことができます。「生前葬」を人生の一区切りにして、新しい生活を送ろうと考える人もいます。無宗教の「お別れ会」の形式の場合と、宗教的な葬儀を行う場合があります。
◆エンディングノート(エンディング・ノート)とは
自分に万が一のことが起こった時のために、伝達すべき様々な事項をまとめてノート形式で記入しておくのが「エンディングノート」です。「エンディングノート」を書いておくと、自分の死後、あるいは意識不明となるような発病などの際に、役に立ちます。直接、伝えにくい事柄も、ノート形式で記録しておくことで、確実に伝えることができます。
「エンディングノート」は、自分が希望している葬儀の形をはっきりと伝えることができます。残された人にとっても、当人の意向が分かるので、悩むことなく、葬儀を行うことができます。
それ以外にも、自分史を記録したり、人生のエンディングをトータルにデザインするためのノートです。最近では、「エンディングノート」に関する関心が広がり、各種の機関から販売されています
最近のお葬式には、大きく4つの傾向があります。
◆家族葬
ひとつ目は、家族葬が増えてきたということです。
家族葬は、故人と過ごす最後の時間を大切にしたいという遺族によって行われます。
お葬式で遺族は、何もわからないうちにほとんどすべてが終わってしまうということが多いようです。お亡くなりの時から、お通夜、お葬式まで、慌ただしい中でほとんどが過ぎていきます。故人とのお別れをじっくりする時間もほとんどないというのが現実です。
それに対して家族葬では、ごくごく親しい人だけで行い、周囲を気にする必要もありませんし、じっくりと故人とお別れをすることができます。
また家族葬を親しい人だけで行い、その後あらためて一般の人を呼ぶお葬式を行うというケースも増えているようです。
◆伝統にとらわれない自由な形の葬儀
二つ目としてあげられるのが、伝統的なかたちにとらわれないお葬式が増えているということです。
お葬式で、故人の好きだった音楽を流したり、時には、生演奏を行うケースもあるようです。
ロビーに故人のアルバムなどの遺品を展示することも増えてきましたし、プロジェクターを用意して、故人の写真を映すこともあります。
祭壇も、以前はほとんどが宮型の白木祭壇だったのですが、最近では、色とりどりの生花でつくられた生花祭壇も増えています。
無宗教の「お別れ会」を行うことも多くなった来ました。葬祭ホールではなく、ホテルなどで行われることもあり、より自由なプログラムで行われています。
埋葬の仕方にしても、散骨を始め、樹木葬、宇宙葬というものまで行われるようになってきました。
これまで当たり前と思われてきた多くのことが、自由にアレンジしてもいいと考えられるようになり、こうした変化がもたらされているようです。
◆費用をあまりかけない
その一方で余分な費用をあまりかけないという傾向も見られるようになってきました。以前は「人並み以上のお葬式を」という人も多かったのですが、最近では、無駄と思われるものには費用をかけないという合理的な考え方の人が多いことから、こうした傾向になってきたのでしょう。
◆事前相談
そして四つ目としてあげられることが、お葬式についての相談を事前に行う人が増えているということです。
以前は、事前にお葬式の相談をすることは、どこか縁起がわるいような気がするのもあり、ほとんどなされていませんでした。
しかし最近では、家族が危篤状態に陥ったり、あるいは医者から先が長くないことを伝えられた時点で、お葬式についての相談をされる方が増えています。
これまで、遺骨は墓地に埋葬するか納骨堂に納骨するものと決まっていました。しかし、最近では、遺骨を埋葬したり納骨したりする代わりに、あるいはそれと共に、「散骨」をしたり、「粉骨」や遺骨を「加工」して自宅に置いて供養する(「手元供養」と呼びます)人も増えてきました。これらのサービスを行う葬儀社も増えてきています。
◆散骨
「散骨」は、遺骨を山や海、川、あるいは宇宙などへ撒くことです。遺体の廃棄や墓地以外への埋葬は法的に違法なのですが、法務省は「散骨」に対し「節度をもって葬送の一つとして行われる限りは問題はない」との見解を示しました。つまり、葬送の方法として認められたのです。
「散骨」は、遺骨をそのままの形で散布せずに、遺骨とは分からない程度に粉末化して、他人の所有地以外に散布する必要があります。ですから、親族自身で自宅の庭に撒いても構いません。また、私有地でなくても近所の住民や漁民の感情に配慮する必要があります。
◆粉骨・砕骨
「粉骨(砕骨)」は遺骨を細かく砕くことです。通常は「散骨」や「遺骨加工」の一環として行いますが、「粉骨」だけのサービスを行っているところもあります。「粉骨」した遺骨を、小さな骨壷や何らかの入れ物、宗教的なオブジェに入れて、仏壇に置いたり、仏壇の代わりに置いてお祀りすることもできます。
◆遺骨加工(メモリアル品)
また、遺骨を好きな形に「加工」するサービスもあります。記念プレート状にして身近に置いたり、ペンダント状にして身につけたりすることができます。
、「お葬式」や「お墓」に対する考え方が大きく変化しているとはいえ、死者を弔うことについては疑念をさしはさむ余地はないでしょう。しかし、子供の世話にはなりたくない、と考える人は間違いなく増えています。かといって、子供が親の死を傍観している訳にもいきませんし、他人まかせにしておく訳にもいかない。いざ、お葬式となれば地域性や寺院、家族と親族の考えも含めて難問が連続します。内容や価格を検討する時間と気持ちの余裕のない中で契約してしまうと・・。亡くなった病院で紹介された業者に任せた結果、考えていた以上に豪華になって不満をだいたり、パック料金のはずなのに多額の請求をされたなど料金をめぐってのトラブルの元になるでしょう。家族葬で葬儀をしたら、葬儀後に「線香だけでも・・」と次々に自宅を訊ねてきたため、普通にやっておけば面倒がなかったということもあります。他にも「病院から自宅に遺体の搬送を頼んだだけなのに業者が勝手に葬儀の準備に入った」「お布施や飲食費などの料金体系が複雑」など、突然の「お葬式」に翻弄されないように事前に心しておくことが大切です。 |
お葬式を行うに当たって大事なことは、先ず遺族側のお葬式に対する考えを統一しておくことです。一般的には、故人の家族や故人の兄弟で相談し、仕事の分担をしていただくことが多いのですから、喪主を中心に遺族側の考えを統一しておく必要があります。
ジミ葬、偲ぶ会などと喪主が勝手に行えば親族や近所付き合いでのトラブルのもとになります。
相談内容のポイントは
1.故人の遺志を確認する(遺書の有無・生前誰に何を言い残したか)
2.お葬式をどのような形式と規模で行うか
危篤者が亡くなるとまず手継寺に連絡します。通夜・葬儀の日程、方法などについての依頼と打ち合わせをすることになります。
手継寺が遠方であっても、法名のことなどもありますので相談することになります。
いつか、お葬式なんて、やってもいいしやらなくてもいい、なんだっていいんだと話して、お坊さんたちの集中砲火を洛びました。こういう発言は、お坊さんにとって営業妨害のように感じられるのでしょう。
でも、「どちらでもいい」ということは、お葬式を派手にやってもいいのです。やりたい人がやることに、わたしはけちをつけているわけではありません。
先祖供養だって同じです。先祖供養をしたい人が先祖供養をされる。熱心にやっておられる。それはそれで立派です。わたしはそれを非難しているのではありません。
ですが、先祖供養をしていない人も、それはそれでいいのです。なにも無理に先祖供養をする必要はありません。それが証拠に、浄土真宗の開祖の覿鸞聖人は、
《親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず》(『歎異抄』)と言っておられます。いや、そもそもわたしたちは死んだらすぐにお浄土に生まれるのです。
《即得往生》(『無量寿経』)
であって、死んだ瞬間、すぐさま浄土に往き生まれる。それも、仏のほうから迎えてくださるので、子孫が先祖供養をしたからお浄土に往けるのではありません。そんなこと、仏教のABCです。したがって、先祖供養は「なんだっていい」のです。わたしはそう思います。
それじゃあ、おまえは、お葬式・先祖供養になんの意味も認めないのか?と詰問されそうですが、そう詰問する人のほうが、お葬式・先祖供養の意味をわかっておられないのです。
この点については、菩提達摩(インド名はボーディダルマ)の話があります。
菩提達摩は六世紀にインドから中国に禅を伝えた人物です。あの起き上り小法師、達磨人形のモデルになった禅僧です。達摩(後世の文献では達磨と表記されています)は中国に来て、最初に梁の武帝に会い、問答をしています。
武帝は達摩にこのように言っています。
《朕は即位以来今日まで、多くの寺院を造り、経巻を書写し、また僧尼たちを度してきた〔=出家させた〕。これらの行為には、いかなる功徳があるであろうか?》
写経をし、寺院を建立し、僧尼を援助する。すべてすばらしい行為です。それを武帝はやってきました。
だが、その問いに対する達摩の答えは、
《無功徳》
でした。「功徳なんてあるものか」というものです。
なぜ、でしょうか? わたしたちが功徳・ご利益を求めて何かの行為をすれば、その行為は楽しくなくなります。義務的になってしまいます。たとえば、満員電車で老人に席を譲ります。そのとき、老人から「ありがとう」の言葉(功徳)を求めていると、その老人が無言でいた場合、(こんな奴に譲るんじゃなかった)と不快になります。親切をして不快になるのであれば、親切はやめておいたほうがいいでしょう。達摩はそのことを言いたかったのだと思います。
「あんな、おまえさんが功徳を求めて写経をしているのであれば、やめとき。そんな写経に功徳なんてあるものか!」ということでしょう。
わたしたちは、写経が楽しいから写経するのです。親切にさせていただくことがうれしいから、そうするのです。親切そのものが功徳である、そういう親切をさせていただくわけです。
したがって、お葬式・先祖供養は、それが楽しいからさせていただくのです。″楽しいから″という表現はちょっとおかしいですが、楽しくない葬式・義務的にする先祖供養であれば、する必要はありません。(中略)お葬式や先祖供養は、あなたがあなたのためにするのです。そういうお葬式・先祖供養をすべきです。
だから、したい人だけがすればいいのです。先祖供養をしないと崇りがある、だからするというのでは、それこそご先祖さまを悪魔の類にし、冒漬していることになります。
最近、新聞やテレビなどで、「家族葬」や「直葬」という言葉を聞いたことのある人は多いのではないでしょうか。
「家族葬」というのは、ひと言で言えば「遺された家族が、故人とのお別れの時間をじっくりと過ごすことのできるお葬式」のことです。
また「直葬」という言葉も、ここ2、3年、急速にポピュラーになってきました。 家族葬・直葬の現実 「家族葬」も「直葬」も、十年くらい前には無かった言葉ですが、最近はこうしたお葬式を選択する人も増えつつあり、市民権を得るようになってきています。
特に最近、皆さんからの相談電話を受けていて感じるのが、「安いから家族葬」「お葬式はいらないから直葬」という人が増えていることです。 |
|
「演出」という言う言い方をすると、作為的な響きがあって、ちょっと語弊があるかもしれませんね。
言いかえるなら、故人は亡くなってはいるけど、きっと故人が喜んでくれるにちがいないお葬式にするにはどうしたらいいかということです。
ビジュアルにこだわる
演出には「ビジュアル(見た目)」の要素と「式次第(進行)」の要素があると思います。
まず「ビジュアル」の要素についてお話したいと思います。
最近メモリアルコーナーという名称で故人の遺品を飾るケースが増えてきました。
飾る場所は祭壇であったり、式場入り口であったり、控室であったりいろいろです。
例えば野球が趣味だったのでマネキンにユニフォームを着せて飾ったり、サーフィンが趣味だったのでサーフボードを飾ったり、バイクが趣味だったので式場にバイクを飾っているのを見たこともあります。
プロジェクターが備え付けの式場なら、生前の写真を加工したイメージフィルムを、好きだった音楽にのせて映すようなケースも良く見かけるようになりました。
進行にこだわる
次は「式次第(進行)」についてです。
個人葬では「弔辞」をもっと活用してはどうでしょうか?
弔辞は社葬ではよく見かけますが、個人葬では一割程だと思います。
弔辞の良い所は、宗教儀式の式中でも、故人の思い出を語ることができることです。
別に気の利いたことを言う必要はないと思います。
立て板に水で話す人は話が上手だったという印象は残りますが、むしろ心を打たれるのはたどたどしく自分の言葉で語る人だったりします。
別に原稿を見ながらでも構いません。
ある無宗教葬では喪主さんがアトランダムに参列の方を指名して故人の想い出を語ってもらったそうです。
そのためみなさん飾らない言葉で話さざるを得ず、それがいい結果をもたらしたと聞きました。
そうは言っても弔辞を述べる方にしてみれば緊張するものですから、式中の進行に組み込む形なら早めに(その日になって頼んだりしないよう)お願いして承諾を得た方がいいかもしれません。
また無宗教葬の場合、宗教的な制約がないので遺族の希望が何でもかなえられると考えがちです。
もちろんそういう側面もありますが、逆に「何をやってもいい」と言われると「何をしたらいいか分からない」状態になってしまいます。
そんな時は、当サイトもしくはご紹介させていただく葬儀社さんにご相談ください。
今まで述べてきた演出も、事前相談の段階で決めておいた方が万が一のとき、スムーズに行えます。
実は上記のような演出はご相談いただいた方からの要望をもとにアレンジすることが多いのです。
「こういったことがしたい」という御要望があれば、ぜひおしゃってください。
実現に向けてのお手伝いをさせていただきます。
お葬式で用いられる「白骨の御文」と呼ばれる御文がある。われや先、人や先、夕べには白骨となれる、そんなはかない私たちであるから、一日もはやく「後生の一大事」を心にかけて、念仏申すべきであると言われている。「今まで生きてきた、その生き方がこれでよかったのか?」と、仏がそう問い続けているのである。「後生の一大事」とは、帰るところもなく、依るところもない、これまでのそんな人生に気づき、迷いから目覚めることである。
後生の一大事とは、
世間は一旦の浮生、後生は永生(ようしょう)の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生という事は、ながき世まで地獄におつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事と思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。
浄土真宗では、お葬式のあとのお骨上げのときに「白骨のご文章」を拝読します。その中には、「われや先、ひとや先、今日ともしらず、明日とも知らず」「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」という有名なお言葉があります。
そして「人間のはかないことは、その寿命が老少定まりのない境界なのですから、どのような人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみにして、念仏するのがよいでしょう」としめくくっておられます。
「後生の一大事」とは「わたしのいのちの行方」です。いつどこでどんな形で「いのち」終えるか知れない「この私」に「安心しなさい、必ず安らかな仏の国に生まれさせますよ」と呼びかけてくださる声が「南無阿弥陀仏」です。