近江八幡市民もよく知らない「安義橋の鬼」のこと
西川秀夫
今は昔のこと・・で始まる「今昔物語」(平安時代末期に作られた説話文学)に近江八幡市のことが載っているのを見つけたのは、私が大学一年の頃だと記憶している。そのときは、我が故郷にも「今昔物語」に出てくる有名な場所があったのだと感激したものだった。「近江国安義橋」というのは、近江八幡市倉橋部と竜王町に架かる日野川の橋の名前で現在は「安吉(アギ)橋」と書かれている。今でも倉橋部町には、私の妻の恩師で今は民生委員をされている安吉(アギ)○○氏という方がお住まいになっている。あるとき妻と安吉先生の話になったとき冗談で「鬼の子孫かもしれんで」といったら大層怒られた。そのときまで妻は「今昔物語の安義橋の鬼」の話を全然知らなかったらしい。妻は竜王町の林(安義橋から二つ目の在所)の出であるにも係わらずにである。またこのことは市役所に入ってから周辺の職員に尋ねても、全然しらなかった。それで「こりゃダメだ」と職員には何も期待もせずに、その話はもうあきらめてしばらくせずにいた。ところが、あるとき(今から6〜7年前になるが)市史編纂室の亀岡氏となんの話か忘れたがしていたら(おそらく馬渕の奇面踊りのことからだと思う)、安義橋の鬼の話がでた。さすがに亀岡氏は知っていた。(当然といえば当然であり、知らなかったら市史編纂を担当する資格を疑うところである)そのとき、「安義の鬼」の映画があるのを知ってるか。と聞いてみたら、さすがにこれもあることは知っていたが、見たことがないとのことであった。私は、すでにレンタルビデオでこの映画を(偶然だが)見ていたので、少し優越感をもった。亀岡氏も八方手配したが手に入らなかったらしい。私もネット検索をしてみたがアマゾンでも在庫切れで無かった。(私が見たのは「レンタルビデオつたや」が堀上町にあった時で今はなくなっている)この映画は、早川光氏の監督・脚本で「アギ・鬼人の怒り」といった題名の1984年作品で、中村久美、伊武雅刀、天本英世などそうそうたる俳優陣が出演している。物語の舞台は近江国安義橋であるが実際は京都府八幡市にある木津川に架かる「流れ橋」をロケ撮影したものである。映画の内容(ストーリー)としては、次のようなものであった。
解説・ストーリー
安義の橋に出没するという鬼を退治に出かけた侍たちを描く。「今昔物語」のなかの「安義の橋の鬼女」を映画化したもので、
平安も末期の頃、近江国にある安義の橋に鬼が出没するという噂があり、誰もそこへ行こうとする者はいなかった。近江守の郎党たちは、太郎が美しい妻を持っていることをねたみ、彼をあおり鬼退治に行かざるを得なくする。太郎は馬に乗って安義の橋へ行く。そこで美しい女に姿を変えた鬼に遭遇、馬を殺され、命からがら逃げ帰って来た。床に臥している太郎の所へ、弟が尋ねてくる。しかし、この弟、本当は鬼で、太郎は惨殺されてしまう。近江守は太郎の死を聞くと怒り、郎党たちを鬼退治にさし向ける。太郎の妻は夫の復讐のため、同行を願い出るが断わられて家へもどり、はした女に姿を変えていた鬼にやられてしまう。安義の橋についた郎党たちに鬼がとりつき、彼らは互いに斬り結ぶ。朝がきて、生き残った郎党は一人だけたった。 |
鬼が復讐する内容は、昔見た三船敏郎の「羅城門」とは異なるが、渡辺の綱に切られた腕を取り返しにくる場面(シーン)の茨木童子=「羅城門の鬼」の話とよく似ている。それもそのはずで、原作は「今昔物語」からでたもので根は同一なのであるからして。一条戻り橋の鬼も、同じ「今昔物語」である。というような批評をしても、実際にその映画を(ビデオだが)見たのは、私の周辺(市役所内でという意味)では、私だけというのは、若干寂しい気がする。(オイオイ本当にいないのですか?)
本当の「安義橋の鬼」の内容を知らない人には、「今昔物語」の口語訳本をお勧めしておく。また、最近は、安部清明の「陰陽師」ブームではあるが、作家の夢枕獏氏の作品にも「安義橋の鬼」のリメイク版ともいうべき作品が収められている本(「七つの怖い扉(新潮文庫)」「ものいふ髑髏」)があるので、お読みいただければ幸いである。私は聞いたことはないが講談でも旭堂小南陵氏が「安義橋の鬼」を語っているということである。
いうなれば、「安義橋の鬼」という物語は全国区であるにもかかわらず、地元の人があまり知らないということが示された一例である。
さて、もう少し、安義(安吉とも書く)のことにふれておきたい。余談ではあるが、私の得意とする分野でもあるから。近江八幡が大島郷、舟木郷、桐原郷といわれていた当時(和名抄)蒲生郡内の九郷の一つとして安吉郷があり、安吉郷内には倉橋部村、上畑村、弓削村、東川村、西川村、信濃村、須恵村の七村があったという。したがってこれら村内を流れる日野川を安吉川とも呼ばれていた。また舟木郷は琵琶湖の湖上交通において造船や船頭とのかかわりが深い。そのため早くから郡内の主要な港としての機能を有しており、この舟木郷と安吉郷を結ぶ白鳥川は主要な水路であったと考えられる。また陸路についても湖岸道路と中山道(東山道)を結ぶ白鳥街道(白鳥川の水路沿い)は古代から湖東における主要道路であった。その(蒲生郡)政治の中心にこの安吉郷があったと思われる。またその安吉郷内の中心的位置にあったのが倉橋部町であった。滋賀県の遺跡地図でも現倉橋部町には倉橋部遺跡(古墳)、倉橋部廃寺跡(寺院跡)、安吉社古墳群(古墳群)、栗木山古墳群(古墳群)が確認される。しかし、この地が倉橋部という地名を有することから大化の改新以前の部民制に係わりがあったことにも留意する必要があろう。さて安吉郷や安吉(安義)橋の名の元になった安吉氏は何者なのか。これは研究者の間では百済系渡来人であったとされている。大化改新政府が白村江の戦い以降、渡来人を近江国蒲生郡(安吉郷)の開墾に入植させたとある。倉橋部町には「唐畑」「上唐畑」「下唐畑」の地名が残っている。吉士長丹が安吉郷に食封200戸を得たとの記述もある。いずれにせよ「姓氏録」で見ると、近江の古代豪族「安吉氏」は秦系氏族の系譜につらなるもの(伊香我色男を祖とするともいわれる)とされ、狭狭貴山君(観音寺山)や日触礼臣(日牟礼・八幡山)羽田氏(雪野山古墳)と同時代(7世紀〜8世紀)に活躍したと理解する。(「続後記」に承和七年(840年)九月、安吉郷出身の安吉勝真道が美濃国司に任命されたとある。)いずれにせよ、天智天皇などの蒲生野での狩猟行は安吉氏などの渡来人の勢力を背景に行なわれていたことは想像に難くない。そうした背景があって、「今昔物語」に「安義橋の鬼」が登場するようになったのではなかろうかと推察するものである。
最近になって、この安義橋(倉橋部町)を含む馬渕学区においては、「まちづくり」が盛んに行なわれるようになってきて、当該の倉橋部町では「流鏑馬の里づくり」(安義橋の鬼の話はでてこない)や、馬渕町岩倉地区では「石工の里づくり」(戦国時代の石工衆のことを描いた漫画本「馬渕の右近」も最近出版された。石工では渡来系の穴太衆が有名だが、同様の穴太衆に匹敵する技術集団が安吉郷にもいたということである)が行なわれている。
そのなかで、まだ世間には知られていない(知っている人は知っているという程度の)観光名所が安義橋の近隣には二箇所ある。これは市の観光パンフレットにも登場してこないものだが、余りにも全国的に有名な話であり、市の歴史や観光案内から削除するには、もったいないと思う次第であるのは、私だけかもしれない。そういった思いで以下の二箇所を、ついでながら紹介しておきたい。
一つは、安義橋から北に500m行ったところにある長光寺山=別名「瓶割山」である。
この山は、織田信長の部下であった柴田勝家が城(長光寺城)を築いたところで有名だが、「瓶割柴田」の異名をつけた場所としてもさらに有名である。この時期、信長は織田軍団のうち、近江国西側を明智光秀に与え坂本城を作らせ、近江国北側を羽柴秀吉に長浜城を、東側を佐和山(彦根)城の丹羽長秀に守らせ、近江国南側をこの長光寺城で柴田勝家にまもらせたということである。もう一人の軍団長である滝川一益は北伊勢五郡を守らせ長島・桑名城を与えたとあるが、滝川一益は今の滋賀県甲賀市油日の出身であることから、甲賀市内には「滝川城」跡がある。築城年は不詳である。
さて、柴田勝家の長光寺城であるが、「近江城郭史」には次のように書かれている。
瓶割り柴田と瓶割城
「元亀元年(1570)織田信長は朝倉攻めの途中、浅井長政に背後を突かれて、急遽越前から京へ退却。
その後岐阜へ戻るが、その途中六角承禎、義弼父子によって襲撃されたこともあって同年5月、信長は諸将を江南の城に配した。その時、長光寺山の守備を命ぜられたのが柴田勝家で、勝家は古城を修築して、長光寺城に入った。
同年6月、伊賀に潜んでいた六角承禎は、敗残の兵を集めて一向一揆を扇動し、浅井とも同盟を結んで、5000余の軍を率いて、柴田勝家の立て籠もる長光寺城を包囲した。勝家は800余名の兵と共に城を堅く閉じ、ひたすら籠城策をとった。
これを攻めあぐんだ六角承禎は城の水源を断ち、ころを見計らって配下の平井勘助を使者に出し城内の様子を探らせた。ところが案に反して城中では水は潤沢で、馬のからだを水で洗うという豪勢さであった。だが、これは勝家の苦肉の策で実際のところは、飲料水にも事欠く有様であったのである。
こうして六角勢の意気を挫いた勝家は同6月23日を期して城を打って出ることとし、その前日、籠城戦と食料の欠乏のため、ゆるんだ志気を高めるために、勝家は城兵を前にし、長刀の柄で最後の水を貯めた瓶を割って見せた。
つまり、このままむなしく死を待つか、それともここを先途と打って出て活路を開くか、この決断を促したのである。
23日未明、 総勢800余名を引き連れた勝家は城門を開くと、山を揺るがすばかりの鬨の声をあげて六角軍の本陣をめがけて、打って出た。
不意をつかれた六角軍は総崩れとなって、300余名が戦死したという。
この時以来、柴田勝家のことを「瓶割り柴田」と呼び、長光寺城のことを「瓶割城」と呼ぶようになった。)
これほど有名にもかかわらず、近江八幡市としては、八幡開町の祖である豊臣秀次公に遠慮してか、あまり瓶割山城跡のPRをしてこなかったせいか、観光客もめったに来ない、いわば歴史ファンにとっては垂涎の穴場的場所ともいえる隠れた観光名所となっている。そこで一つの提案だが、柴田勝家の関係した「北の庄城(福井市)」と提携交流するのもいいのではと考える。もっとも「北の庄城」は柴田勝家落城のあとは結城秀康が継ぎ「福井城」とし、幕末には松平春嶽がでたことで有名ではあるが・・・・まだまだ柴田勝家については、これからの観光資源となる可能性(掘り起こし)が大である。お隣の安土城を抱える安土町では、大々的に信長まつりや信長サミットを起こして「まちづくり」に取り組んでおられるのを参考にすればと考えるのは私だけだろうか。なお、信長の近江侵攻により、前述の安吉郷(竜王町林・川守村も含む・・勝家より水論裁許状が渡されている)や武佐・馬渕一帯は柴田勝家の配下におかれることになるのである。
さて、もう一つの場所は、「住蓮坊・安楽坊」の遺跡である。これも馬渕学区の千僧供町というところにある。(これも安義橋から歩いて5分ぐらいのところにある)この話は、地元の婦人会が紙芝居にして市民に広めたので、市民で知っている人も多いと思うが、「鈴虫・松虫」の物語といえば全国的に知っている方もあろうかと思う。
鎌倉時代の承久の変で活躍した後鳥羽上皇の御所女房(愛妾)であった「鈴虫・松虫」の二人が法然上人の弟子であった住蓮坊と安楽坊に入信して上皇に黙って出家(京都鹿ヶ谷の安楽寺に墓がある)してしまったことから、念仏弾圧の引き金となり、師匠の法然は土佐へ流罪、住蓮と安楽は死罪となった。(このとき親鸞は佐渡に流罪となる=これを承元の法難または建永の法難という)安楽は京都河原で打首、住蓮も逃げてこの近江の地で捕まり打首となった。(住蓮坊が馬淵=安吉郷出身だったという説もある)のち、関係者が安楽の首と一緒に住蓮坊遺跡に埋めて供養したということである。・・・・それが今に伝わる住蓮坊(安楽坊)遺跡の物語である。京都にも住蓮山安楽寺というお寺があるが、江戸時代に建てられたものであり、千僧供にある石塔(御僧塚)も江戸時代に作られたものらしい。400年もたってから供養されたということは徳川家が浄土宗であったのとなにか関係あるのだろうか。それはともかくとして、浄土宗や浄土真宗では、法然や親鸞の足跡を旅する「聖跡巡拝」が行なわれているが、この承元の法難跡の一つとして住蓮坊遺跡も加えてみてはいかがなものかと考えます。おそらく浄土宗や浄土真宗系の仏教徒にとっては、魅力ある遺跡探訪のひとつとなるでしょう。また千僧供町の易行寺の赤松住職談によれば、住蓮坊・安楽坊の菩提を弔うために、僧侶一千人が集ったことから、この地は「千僧供」と言われるようになったということである。
以上、「安義橋の鬼」とかかわって、近場での名所遺跡を紹介しました(近いのですべて歩いて観て回れます)が、この三箇所の話を市内で八幡山と豊臣秀次(*注1)の話(秀次倶楽部というNPOまである)ほどに知っている人は、何人いるか、はなはだ疑問のあるところです。ゆえに、私としては、あえて、この三つを載せました。
また、これ以外にも市内の小田町には織田信長の愛妾であった「お鍋の方」の話が伝承されていたり、隣の竜王町綾戸の苗村神社には(注*2)天日矛(アマノヒボコ)伝説が残されていたり、(苗村神社縁起では別記のような記述(注*3)もある・・)近くには天智天皇や天武天皇と額田王の相聞歌「あかねさす むらさきのゆき しのめゆき・・」で有名な「蒲生野」があり、また額田王やその姉で藤原鎌足の正室であったとされる鏡大王(かがみのおおきみ=鏡王女とも書く・・南都興福寺縁起には鎌足の夫人、鏡大王が興福寺の前身である山階寺を創建したとある。平城遷都に伴い現在の地に移されたが藤原氏の氏寺とされる。ちなみに奈良県桜井市にある恋神社の祭神は鏡大王である)の出身地とされる鏡の里=鏡山もある。(この鏡の里には源義経が奥州へ旅立つとき元服したと伝えられる義経元服池もある=最近国道8号線沿いに道の駅が出来た。昔は東山道の鏡宿があって賑わったところである)さらにつけ加えるならば、壬申の乱の時、天武側の将であった鏡王(額田王や鏡大王の父?)が戦死して、先ほどの(住蓮坊安楽坊の遺跡がある)黒塚古墳とも言われている場所に葬ったとも(竜王町観光課によれば真照寺に葬られているとも)言われている伝承がある。
また隣接の東近江市には、全国の木地師の総本山?とも言うべき場所(社)もあり、この近江八幡に住んでいる私たちは、この地をはじめ周辺は歴史の宝庫でもあることを、今一度再認識しておきたいものである。大阪・名古屋・東京などは人口が多いだけで歴史なんて、薄っぺらいものである。もっと自分たちの住む地域の歴史を知り誇りを持ってもらいたいものである。これがここでの結論=言いたかったことである。
以上
注*1:豊臣秀次の研究書には「豊臣秀次の研究 藤田恒春著 文献出版」「豊臣秀次 小和田哲夫著 PHP出版」「封印された名君豊臣秀次 渡辺一雄著 廣済堂文庫」「有明の月 豊臣秀次の生涯 沢田ふじ子著」などがある。市民の必読書として是非にお読みくだされば幸いです。
注*2:アマノヒボコ・・・別名を「ツヌガアラヒト」とも言い、新羅系渡来人だとされる。今の敦賀に上陸し近江に至ったとされる。多くの職能集団を抱えていた。一説には、継体天皇ではないかとされている。アマノヒボコの従者とされる職能集団が苗村神社を中心とした一帯に住んだとされ、職業的地名として弓削、綾戸、駕與丁、鏡、川守、須恵などの字名が今も残されている。鏡の里=鏡山(=八大竜王の一つ摩耶斯竜神(まなしりゅうじん)が住んでいたとされ竜王山とも言われる)=(額田王や鏡王女の出身地)には鏡神社があり、その主神はアマノヒボコ(天日槍)である。日本書紀に天日槍(矛)の従人をこの地に留めおき、優れた陶器技術などを広めたと記述されていることから、鏡王や額田王、鏡王女などは、このアマノヒボコの系譜につらなる子孫達ではないだろうかと推察される。(作者注)ひょっとしたら、藤原(俵)藤太秀郷で有名な三上山(祭神の天之御影神とは天目一箇神の別名で、単眼の製鉄神である。近くには鋳物師の地名もあるところから、三上山では製鉄を行なう鍛冶集団がいたと解される=現に草津市野路の小野山製鉄所遺跡は、8世紀の奈良時代の近江国司であった恵美押勝=藤原仲麻呂の影響下で畿内最大の官営製鉄所跡があったとされている)のムカデ退治に出てくる困っていた竜王とはこの地の人を示しているのではないだろうか。藤原氏と鏡は鏡大王を通して血縁の関係にあることは、本論で述べているとおりである。
注* 3:近江與地志略に云う「苗村ノ庄ハ三十余郷アリ天王御鎮座大社ノ旧跡ナリ。大祭祠三十三年三度行ハルト云フ。何等ノ由来ヤアリケン。国中ノ賎職ヲ作ス者寄リ集リ、此ノ神事ヲ務ル也。石切、青屋、筆屋ノ賤職二十余流アリト也。祭ノ前年ヨリ屠児、船頭羅ノ者吟味僉義シテソレソレノ役目ヲ云ヒ渡ス由也。清浄ノ大神事ニ下輩ノ集リ役ヲ務ルハ不審ナルコト也云々」とある。すなわち職能者は賤民扱いされていた故に神事に賤民が集まるのは不思議である。といっているのであるが、アマノヒボコの従者=子孫とすれば肯けるかと思う。
注*4:近江高天原説は、早くからあって、明治期の「橋本犀之助」氏の「近江の高天原」や菊池山哉 氏の「天の朝の研究」さらには八切止夫 氏の著作にも紹介されているところであり、今でも湖北の(近江の山本義経の居城があったとされる)山本山には敦賀に上陸した天孫民族が山本山を降臨地と定めたとする説明がされている程である。実際、古事記に登場する天の真名井は琵琶湖であり、天の安河は野洲川のことだと理解している。余談だが、NHKでシルクロードを旅するを見ていたら、楼蘭(ロウラン)で四千年前のミイラが発掘されたという。それは女性のミイラであったが白人種であった。すなわち四千年前の中国には白人種が文化を創っていたということである。そうすると、日本における秦=ユダヤ人説(これを・・日ユ同祖論という)も否定はできなくなったと感じた次第である。それはともかくとして、古代近江(7世紀以前)には大和朝に消された近江朝=近江文化圏があったことは間違いない。
注*5: 闇の日本史によると、蒲生氏郷の蒲生一族も藤原秀郷の末裔であり、秀郷は近江でムカデ退治の伝説を残しているが、「ムカデ」は武田信玄でおなじみの金山衆の旗でもある。鉱脈に掘られた坑道がムカデの形をしているからで、その多くは鉱山・製鉄関係者を指し、ムカデ信仰は鉱山師が信仰していた。つまり、秀郷のムカデ退治は、秀郷が産鉄民を支配下に置いたことを意味するものである。奥州の藤原氏にしても鉱山を支配したから、金売り吉次の例を出すまでもなく、勢力を維持できたと考えられるのである。
参考・・・http://www8.ocn.ne.jp/~honky/kyouken.html ・・住蓮坊遺跡のこと・・易行寺