26、宮本武蔵の謎
吉川英治で有名な「宮本武蔵」のことは、ほとんどの人が知っているでしょう。それに比べたらレベルはまったくちがうが武蔵コミックとしての井上雄彦著『バガボンド』(講談社)は圧倒的におもしろい。2002~2003年にあったNHKの大河ドラマ(MUSASI)の武蔵本ブームの便乗本で出ていると軽く思っていたが、最近の武蔵小説の劣悪さに比すれば、それなりに読める。
しかし、その「宮本武蔵」なる者が、私の知っている限りでは4人います。これは歴史上のミステリーです。
晩年に「五輪書」を書いた宮本武蔵は「宮本武蔵玄信」と名乗っています。この「玄信」は「二天一流」を創始した、播州(兵庫県)宮本村の人だと伝えられています。養子になって小倉藩の家老になった宮本伊織の残した家系図にも播州とあります。播州の宮本武蔵は黒田家とのつながりもあったといわれています。
ところが、作州美作(岡山県)の宮本村にも、「宮本武蔵」生誕の地があります。名前は「宮本武蔵政名」といいます。この「政名」は、当初は新免武蔵と名乗っていたそうで、「円明流」(十手・手裏剣術)の開祖として登場しています。(これは私が実際岡山市に旅行に行った時に発見しました。岡山県には武蔵の酒までありました。)
現在、宮本武蔵の出身地には作州生誕説と播州生誕説の二つがあって、そのどちらもが観光名所になっていますし、出身地だとしています。私のつたない頭では、これでは宮本武蔵は二人いたと理解できるのです。
ところが、そのほかにも、鳥取藩に仕えた「宮本武蔵義貞」という人もいます。これらの人は空想ではありません。ちゃんとした文献に出てくるのです。また、絵や書を残した「宮本武蔵」は「宮本武蔵範高」だということです。一体これらは、どう考えればよいのでしょうか。
そこで、ふと疑問に思うのが、一乗下がり松の決闘で吉岡一門と対決したのは一体誰なのでしょうか、ということです。一方の吉岡道場は「京八流」の正当な剣道場であったことは歴史的な事実です。そこと決闘した人物が架空であるはずがありません。また、佐々木小次郎と下関の巌流島で対決した宮本武蔵はどの「武蔵」であったのだろうかということである。
少なくとも、宮本武蔵が、ある時点で有名になったとき、宮本武蔵を名乗る侍が複数出たことは、有名税のうちでと、なんとなく分かるのですが、歴史の根本的なものとして、誰が(どの武蔵が)なに(巌流島の決闘、吉岡道場との対決、二刀流の開祖、etc)をしたのか・・・。歴史に興味のある者としては、せめてそのぐらいは歴史的に明らかにしておきたいと願うものである。
実際、玄信、政名、範高、義貞のほかに宮本武蔵角平、宮本武蔵恒、宮本武蔵義経、宮本武蔵永禎、宮本武蔵忠躬などもいるという。(詳しくは調べていないが・・)なお、作家五味康祐「二人の武蔵」は、作州浪人平田武蔵と播州浪人岡本武蔵が2人の武蔵で、岡本武蔵は播州米堕村(米田村?)の岡本新左衛門の子という設定になっている。
武蔵生誕の地も、諸説あり、各地に顕彰碑等がある。以下に紹介しておこう。
【岡山県美作市(大原町)宮本村】
武蔵の生誕碑は武蔵宅跡の前に建っている。「宮本武蔵誕生地」。明治44年建立。
熊本(武蔵の入滅地)の武蔵顕彰会が武蔵誕生の地として確認。それを受けて町内有志が建立。宮本武蔵駅まである。武蔵の里として観光用に整備されている。
【兵庫県高砂市米田村】
承応2年(武蔵没8年後)に小倉藩筆頭家老宮本伊織(武蔵の養子)が故郷の氏~泊神社の社殿一式を再建した。その本殿に掲げられた棟札が武蔵生誕地の論拠となっている。伊織と田原政久(一族の一人)が寄進した石灯籠が社殿裏にある。
【兵庫県太子町宮本】
宝暦12年に書かれた「播磨鑑」に「宮本武蔵ハ揖東郡鵤ノ荘宮本村ノ産也」とある。これが論拠。石碑は石海神社前の公園の一角に建っている。隣接して武蔵生家跡やゆかりの井戸もあり、「剣聖宮本武蔵生誕の地」と書いた幟が立ち並んでいる。
旅行の話のついでに・・・・、06年3月に私と妻の二人旅(いわゆるフルムーン)で山口の湯田温泉に行ったとき、松田ホテルに宿泊したのだが、明治維新の元勲であった井上馨屋敷跡を見たり、湯田温泉から山口市内まで歩いて、フランシスコザビエルの教会(ザビエル記念聖堂)や山口藩庁跡(山口県庁がある)瑠璃光寺五重塔などを散策したことが思い出される。また津和野町まで足をのばしたが、そこが島根県で、森鴎外などが出ている生誕地の家があったところで、かつ明治の長州藩の影響を強く受けていたこと等が想像されて楽しかった。