メモ:  金照寺もんすい(門徒推進)通信 

 

 

 


シリーズ2

親鸞聖人の関東旧跡を巡りました! 

 

 


親鸞750回忌を迎える2011年を前にして前回の越後七不思議の旅に引き続いて、今回縁あって親鸞聖人が42才〜60才まで関東常陸国にて布教された関東旧蹟の一部の寺を巡拝してきました。今回の「関東旧跡の旅」では、茨城県の小島草庵、稲田草庵(西念寺)、板敷山大覚寺、そして東京の本願寺派築地別院(築地本願寺)を参拝しました。

お知らせ

2010515日に滋賀教区門徒推進員連絡協議会の総会で晴れて会員となり「門推協」の名札をもらいました。金照寺では2名(故三郎氏を入れれば3名ですが・・・)の門推員が誕生したわけです。ついては「金照寺ぶつそう通信」を終了しまして、新たに「金照寺もんすい通信」として発信していきます。(H.N

浄土真宗の開祖親鸞聖人と常陸の国(茨城県)の関係は大変有名です。笠間稲荷神社で知られる茨城県笠間市の稲田の西念寺は浄土真宗発祥の地ともいわれており、「稲田草庵」として特に有名です。
そんなわけで、茨城県に親鸞聖人のゆかりの地を探せば、その多さに驚きます。小山市の高田派本寺専修寺をはじめ親鸞聖人の弟子24輩といわれています旧跡がいたるところに存在します。今回はそのうちの「小島草庵跡」「稲田の草庵=西念寺」、弁円で有名な「板敷山大覚寺」の3か所を訪ねました。

親鸞聖人は鎌倉時代初期の1207年に「念仏停止」の令を受け、法然らと共に流罪となった。そのきっかけとなったのが、近江八幡市千僧供町にある「安楽坊、住蓮坊」の首塚の兄弟子たちであった。そのことはさておき、越後の流罪が許されたにも係わらず、親鸞聖人は流罪先の越後から妻子とともに上野国を経て常陸の国に1214年に入っている。

「親鸞伝絵」では常陸の国で、最初に居住したのは下妻(茨城県下妻市)の「小島草庵」で、ここに3年滞在したという。その後、常陸の国の稲田(茨城県笠間市稲田)の「稲田草庵」(西念寺)を本拠地として、20年間、浄土真宗の伝道に努めている。この草庵で「教行信証」を制作した親鸞聖人は60歳ころ京都に上がっている。

最初に、旅程のコースを示しておきます。当初の計画では、高田派本寺專修寺に行く予定であったが、下妻の小島の草庵が離れていて、時間が遅くなるよとの笠間ジャンボタクシーの運転手の話により、急遽、高田派本寺專修寺の参拝を取りやめ、代わりに「板敷山大覚寺」をコースに加えました。そのため、東北新幹線の「小山駅」

 

 

 

 

 

 

 

 

から「東京」へ帰るコースを中止して常磐線で「土浦駅」から「上野駅」までの特急「フレッシュひたち」で帰りました。

 

それでは、紀行風に、訪れた場所の順番に、解説などを加えて、説明をさせていただきましょう。

まず、当日の日程ですが2010年5月16日(日)〜17日(月)の12日のコースでハードスケジュールとなりました。旅のコースは、16日朝715分発の米原行に乗るべく、バスで大房を出発し、一路東京へ新幹線で行きました。東京駅で東北新幹線やまびこに乗り換え、小山駅で下車。小山から水戸線で笠間駅へ→水戸線はJR線だが単線であり、こちらの近江鉄道のようなのんびりとした路線でした。

笠間駅に着いたら、手配しておいたジャンボタクシーが私達一行を待っていてくれました。時間も12時半を少し回ったところだったので、駅近くの笠間稲荷神社につれて行ってもらいました。お寺詣りに来ていて何故、稲荷神社なのかというと、この笠間稲荷神社は、日本三大稲荷「伏見稲荷、豊川稲荷、笠間稲荷」といわれる稲荷神社の一つで幹事が一度は見ておきたかったからです。昼食は稲田草庵近くのそば処「のざわ」が有名らしいと運転手の方が薦めるので、そこにしました。30分の予定が1時間たっぷり取ってしまいました。そば処のすぐ近くに「稲田草庵=西念寺」がありました。別格本山となっています。本堂でお参りをしたあと、九州から来ているという坊さん(職員)にお話を聞きました。この寺の住職(輪番)は東本願寺と西本願寺から交代でなっているとのこと。そういえば本堂の内陣の荘厳は西でもあり東でもありの混在したものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 西念寺には親鸞とその弟子の話がいくつか伝えられていて、山門から境内に入ると「弁円回心の桜」「お葉つき銀杏」「御杖杉」「神原の井」が並んでいる。「お葉つき銀杏」は葉の先に銀杏の実がついた不思議な銀杏であり、実物をみせていただいたが、本物だった。これは親鸞聖人が草庵で銀杏の実を銀杏の葉に包んで蒔いたところ、葉の先に実がつく不思議な銀杏が育ったということで、茨城県の指定文化財にもなっているという。また「弁円回心の桜」は親鸞聖人を害そうとした山伏弁円の話である。彼は親鸞を殺そうとしたがその威にうたれて帰服し明法坊と名乗った。これを喜んだ笠間時朝というこの土地の豪族が桜を植えて「弁円回心の桜」と名づけたという。この桜は「御杖杉」と同様に火事に遭い、根本だけが残っていた。

 弁円の板敷山が近くにあるというので、山の峠まで、車で行けるところまで連れて行ってもらった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 板敷山の山道は、今でも細く暗い道であり、このような場所で、弁円が親鸞聖人を殺害しようと待ち伏せしたのかと・・・・「親鸞伝絵」の条の光景に思いを巡らせました。板敷山の麓には「板敷山大覚寺」がありました。

大覚寺の裏に板敷峠があり峠から山に入ると山伏弁円が親鸞聖人を害するために三日三晩祈ったと伝えられる護摩壇跡があります。親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人が編纂された親鸞聖人のご伝記、『御伝鈔』の下巻の第二 段には「越後から常陸に移られ、笠間郡稲田郷にお住まいになりました。ひっそりとお住まいになっておられても僧侶俗人を問わずに人が訪ね、庵の戸を閉じていても身分に関係なく多くの人々 が溢れるように集まった」と記しておられます。このような常陸での親鸞聖人のご教化に対し快く 思わない人々がいました。続く『御伝鈔』の下巻の第三段には親鸞聖人の命を狙った山伏弁円を教化されたエピソードが記されています。また、大覚寺の「縁起略述」は常陸楢原の地に山伏 の道場があり、播磨公弁円はその司として人々 の崇敬をうけていたが、親鸞聖人がご教化をされてから、修験の法にたよるものが少なくなり、 親鸞聖人を蛇蝎のごとくに怨んだ。(弁円は)弟子35人と謀り、ついに聖人を殺害しようと、板敷 山南麓の空いた庵(今の大覚寺)にて、聖人の ご教化の行き帰りをしばらく狙っていたが、聖人を襲うことができなかった。そこで板敷山の山頂に護摩壇を築き、三日三晩にわたり修法するが 何の効験もなく、ますます怒りをつのらせ、刀杖 を携え単身稲田に推参したと記しています。

 弁円が親鸞聖人を狙った板敷山は稲田の草庵の南に位置し、稲田から常陸国の国府(今の石岡市)へまた霞ヶ浦に出て鹿島神宮へ通ずる道でありました。

 

 次に向かったのは小島草庵です。

1214(建保2)年、親鸞聖人が流罪にあった越後から信濃、上野、下野の国、武蔵、下総を巡って常陸の国に入られ、初めて草庵を結ばれたのが、小島の草庵であるとされている。それから関東における20年の活動が始まった。妻恵信尼と息信蓮を伴い、初めて常総の地を踏み、小島の荘に入られたのは建保2年親鸞42歳のときである。小島草庵は、恵信尼が『御影』を夢見られたところ、聖人この地に留まること3年、草庵を門弟の蓮位房に譲って稲田に移られ常総在住20年、衆生と共に苦しみ悲しみ優しく生きぬく他力本願の開宗の偉業を完成されたのである。浄土真宗発祥は稲田かもしれませんが、事実上「この草庵こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地」(下妻市教育委員会建立案内板より)であるということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 小島草庵からは小山駅(東北新幹線)で東京駅へ行くと遠いと言われたので、土浦駅から常磐線で上野経由の新橋まで行きました。18時を回っていたので宿泊予定の三井ガーデンホテル銀座プレミアまで直行です。ホテル は、16階が(受付)フロントロビーとなっていて部屋まではカードがないとエレベーターも乗れないぐらいの超高級ホテルです。外国からの旅行者が目立ちました。翌日は、築地本願寺に朝8時から参拝しました。朝食はもちろん築地市場のすし屋さんです。メンバーが靖国神社に行きたいというので東京メトロで九段下まで移動。靖国では軍事博物館を見学。渋谷から元町・中華街行きの東急東横線で、.横浜中華街にての昼食は、いくつかの中華飯店をみてまわり「招福門」に決めました。中華街から新横浜まで出て、近江八幡市まで帰ってきました。以上。

信心領解、念仏ご相続のことお喜び申しあげます。

報告は、金照寺若和讃講の「親鸞聖人の関東の足跡を訪ねる旅」のメンバー(HN)でした。一行は住職含めて7名で行きました。1名欠席あり)