金照寺ぶつそう通信(作:西川秀夫)

門徒 言いたいこと 言い放談・ ・・・・副題  これからの浄土真宗のあり方を再構築しよう

自己紹介: 私は、浄土真宗本願寺派 滋賀教区 蒲生下組 金照寺の門徒で 仏教壮年会会員です。   昭和2712月生まれの団塊世代より若干若い世代です。家族は妻、子供3人ですが、共に社会人であり、長男は結婚して大阪に住んでおり、1人は仕事の関係で大垣にいます。ですから今は、両親と私・妻・子供1人の5人家族です。いずれはお浄土へ行ったり結婚したりするでしょうが、いま現在はそういった状況です。仏教との関係については、幼い時より、金照寺の箸くばりや日曜学校に通い、正信偈を習い、大学は龍谷大学で仏教のなんたるかを学び、結婚式も手次の金照寺で住職に司婚者になってもらって仏式で行い、独身時代は仏青に参加し、金照寺では和讃講を組み浄土真宗のみ教えを聞き、壮年期になってからの今は仏壮活動で組や教区の活動をやってきました。浄土真宗を知れば知るほど、すごい宗教だと思う。それなのに、世俗との係わりのなかで、いくつかの疑問が浮かんできました。これを、「言いたいこと 言い放談」としてHPに掲載してみました。これは浄土真宗について思いつくまま気の向くままの放談です。ここでの発言に、責任はもちませんのであしからず。ただしご意見などは受け付けますので、みなさんは、どのように考えられるでしょうか、お聞かせください。

シリーズ1
「通夜」と「葬儀」と「告別式」について

真宗に告別式があってもいいじゃない

夫婦ともに知っている知人の親が亡くなったとき、夫が仕事の都合で、葬式に行けないので妻が会葬に行った。それも昼の葬儀・告別式には勤務の都合で行けなかったので通夜に参列した。・・・・・・・よくある情景である。・・今回あるきっかけで、お葬式の原点、あるべき姿、意外と知られていない葬儀式と告別式の違いなどを調べてみました。という訳で、「通夜はプレ告別式ではない」ということや「葬儀式と告別式の違い」を、まずは皆様にお伝えしたいと思いこのHPをだすことにしました。 親しくない知人や会社関係が葬式に行く時は、以下に述べるように、本来は告別式でいいのですが、近頃は「通夜」が「プレ告別式」と化しています。しかし、本来は通夜と告別式は意味合いが全く違うものです。

 かつて我が仏壮の定例会=和讃講で、手次寺の住職は、浄土真宗では「告別式」とは言わない「葬儀式」というべきであると説明されました。(これは宗教者の立場から葬儀を宗教儀礼と認識したうえの言葉と受け取っています。つまり葬儀は故人との別れではなく仏縁に出会う機会として捉えて葬送儀礼としている。)それ以来、注意してみていると、確かに真宗門徒と思われる家の葬式では「葬儀式」と掲げてある。これは、その家の人が理解していると言うよりも、葬儀会社の方が心得ているというべきか。・・・・その証拠に、会社関係への連絡も「通夜○時、告別式○時、場所○○」という連絡が、*門徒と思われる家からも時々来る。ほんとに「門徒もの知らず」かいな?と思いたくなる時もある。仏事というと、死者の冥福を祈り、仏を供養し、僧侶に施し死者の追善をすることであると考えられてきた。しかし、真宗では法要は故人をしのぶ(他宗のように故人の冥福を祈ったり、追善供養や引導を渡すことはしない)とともに、自らも仏法を聴聞し、仏恩に感謝する行事として行われるものである。ゆえに葬儀式と言っているのである。だからといって告別式まで否定するものではない。全国の真宗系のご住職さん、もっとがんばって門徒の皆さんに真宗の教えのこと、門徒の心構え等PRせなあきませんよ。

さて真宗では告別式とは云わないそうですが、便宜上、ここでは、宗教儀礼の「葬儀式」と社会的なお別れ会=いわゆる「告別式」を区別するため、あえて「告別式」という言葉を使わせてもらいます。

それはともかくとして、以下「通夜」、「葬儀式」、「告別式」のことについて述べてみたいのですが、まず、なんでこのことを書こうと思ったのか、について明らかにしておきたいと思います。ここ2〜3年、葬儀は顕著な変化を見せています。その一つに「最期を故人と親しい人間だけで心おきなく別れをしたい」というのがあります。葬式となると弔問客の応対に忙しく死者と向き合う時間が少なくなりがちです。これに対する不満があるわけです。遺族や関係者にとって葬儀が重要なのは、故人と充分な別れをすることです。本来は通夜こそがその時間なのですが、近年は、事例で示したように、通夜の様相が変化し、通夜の「告別式化」を招いています。会葬者は、平日の昼間よりも夜の弔問が便利ということで通夜に弔問する傾向を増しています。本来、通夜とは故人と近しい関係の人による営みであるはずなのに、現状では通夜という名の「夜間告別式」になってしまっているのが実情です。通夜と告別式は機能的に大きく異なります。通夜は本来は近親者を中心とする営みであり、これと社会性を基本とする告別式が合体することには無理、矛盾がある。その解決策が、私も推薦・賛同する、今日流行の兆しを見せている「家族葬─お別れ会」方式である。死の直後の通夜から火葬までの葬り(葬儀)は近親者だけで閉じて行い、後日に故人と関係のあった人々を招いてお別れ会を行うという方式である。「お別れ会」とは独立形態の告別式の現代的な表現である。なお真宗では、死は阿弥陀仏の浄土に往生することで、故人の死を悲しむものではありません。

【通夜】 @〜Eに通夜について説明

@ 通夜とは、家族やごく内輪の人だけが、まだ居なくなったという実感のおきないまま、しばらく死者とともに過ごし別れを惜しむことです。ですから儀式というより、そのような時間帯のことなのだと考えたほうがいいでしょう。本来はこのように、家族が死者と静かに過ごす時間なのですが、今では多くの人がかけつける儀式に変化しています。

A 通夜は「夜伽よとぎ」「添い寝」などとも言われ主に近親者や故人と特に親しい付き合いをしていた人が集まり葬儀の前夜に夜通し邪霊・悪霊や野獣、雨風などから遺体を守り、故人との別れを惜しむものであったことが始まりとされています。現在では、午後6時頃から通夜がはじまり、午後10時頃までには通夜ぶるまいが終了する「半通夜」が一般的です。遺族はその後も灯明、線香の火を絶やさぬように遺体に付き添います。

B 遺族を中心に親類・知人・友人・近隣の人々が集い、故人の生涯に思いを寄せながら、(冥福を祈り)追憶にふける一夜の集いのこと。昔は、遺体を守る意味があり、夜になって野獣などが襲ってこないように付き添い夜を明かしたといわれています。今日では半通夜といって、午後七時から十時頃までに営まれるのが普通.

C通夜とは、夜を徹して死者を見守り、生きている時と同じように仕えながら、死者と遺された者が最後に交わりをもつ時間なのです。遺族の心情においては、死者はまだまだ生きている家族なのです。こうした遺族の心情を大切にして通夜を過ごしたいものです“通夜”とは、その字の通り夜通し遺体とともに過ごすことを言うのですが、現在では夜通し柩を守るのは近親者に限られます。通夜は正式な儀式ではなく、身近な親しい人の集まりなので厳密なしきたりといったものはありません。

D「通夜」とは、読んで字の如く、「夜」を「通じて」故人を見守るという意味を持つもの。一晩中、ご遺族の方が灯明・線香を絶やすことなく故人のそばで過ごします。古くからの慣例では、「通夜」とは、このように近しい者だけでするものですから、本来は親族以外の友人や会社関係の方が出席するものではないと考えられます。が、最近では、会社を終えてからの時間で出席出来るという利便性から、葬儀よりも通夜に参列される方が増え、通夜の場が「告別式」のような形になっているようです.

次に【葬儀と告別式の違い】について調べてみましたら、次のような説明がありましたので列記します。

@・葬儀と告別式はもともと別の儀式で、葬儀の後に告別式が行われていましたが、近頃では葬儀と告別式をはっきり区別せずに行うようになってきました。

・葬儀とは故人の成仏を祈る儀式で告別式とは、故人に別れを告げる儀式。
 ・葬儀とは、遺族と近親者のみで故人を成仏させる儀式
・告別式とは、友人や知人が成仏した故人に別れを告げる儀式
・葬式とは、葬儀と告別式が一緒になったもの
・・・・と辞書には書かれています。


A お葬式とは、辞書などによると、「葬儀ともいい、故人の冥福を祈り、成仏することを願って遺族や近親者が営む祭儀の一部」となっています。しかし、一般的には、葬儀と告別式が一緒になったものをお葬式と呼んでいます。お葬式のうち、葬儀が遺族や近親者が故人を浄土に送るために行う宗教的な儀式であるのに対して、告別式の方は、故人の友人、知人が最後の別れをする社会的な式典をいいます。かつて人々は、葬儀の後、墓地のある寺や火葬場まで、列を組んで遺体を送りました。これを、葬列または野辺送りといいますが、これに代わって行われるようになったのが、現在の告別式。もともと告別式は葬儀が終わってから行われるものでした。しかし最近では、一般の会葬者が火葬場まで行くことがなくなったため、告別式は焼香を中心に、葬儀と同時に行うことが多くなっています。一般の弔問客も葬儀から出席することが多くなりました。しかし本来、遺族が故人への想いに集中すべき時間である葬儀と、参列者への感謝を示したい告別式とは、まったく心の持ちようが違うもの。そのことをよく認識した上でお葬式を行うようにしたいものです。

これを、お読みになる方は、まず葬式云々以前に「私の宗教は何なのか」を認識しておいてください。もし昔から*門徒ならば、浄土真宗の教えとはどのようなものか、知っておいてください。私の家は門徒ですが、私自身は浄土真宗の教えを聞いて葬儀は浄土真宗で勤めたいと思っていますが、あなたの家ではどのように葬式をコーディネイトしますか。それを踏まえた上で「通夜・葬儀・告別式」を考えてみましょう。ここ2〜3年、葬儀は顕著な変化を見せています。葬式となると弔問客の応対に忙しく死者と向き合う時間が少なくなりがちである。これに対する不満がある。遺族や関係者にとって葬儀が重要なのは、故人と充分な別れをすることである。本来は通夜こそがその時間であるが、近年は通夜の様相が変化し「告別式化」を招いている。会葬者は、平日の昼間よりも夜の弔問が便利ということで通夜に弔問する傾向を増している。通夜は故人と近しい関係の人による営みであるはずなのに、通夜という名の夜間告別式になってしまっているのが実情である。通夜と告別式は機能的に大きく異なる。通夜は本来は近親者を中心とする営みであり、これと社会性を基本とする告別式が合体することには無理がある。その解決策が、今日流行の兆しを見せている「家族葬─お別れ会」方式である。死の直後の通夜から火葬までの葬り(葬儀)は近親者だけで行い、後日に故人と関係のあった人々を招いてお別れ会を行うという方式である。「お別れ会」とは告別式の現代的な表現である。なお真宗では、死は阿弥陀仏の浄土に往生することで、故人の死を悲しむものではありません。ですから、「冥福」など葬儀で使う言葉も注意しましょう。真宗の葬儀や法要は、阿弥陀如来の徳をたたえることと、仏法に出遇わせていただく縁として営まれます。真宗門徒としてふさわしくない、次の言葉は、避けるか言いかえるようにしたい。・・・・・「ご霊前、天国、冥福を祈る、戒名、草葉の陰、祈る、昇天、幽明境を異にする、回向する、霊魂、引導を渡す、永眠」それと「浮かばれない、重ね重ね、重ねて、くれぐれも、繰り返し、再々、再度」などの忌み言葉や重ね言葉。真宗としてすべきではない習俗に、きよめ塩がある。これは、死をケガレと見なしたり、死者のタタリをおそれる考え方に由来するようだが、そもそも亡き人をケガレやタタリと見なすこと自体、故人に対して失礼な行為と考えるので、こうした習慣は行うべきではない。

はっきり言えば、新しいものを作り出すより昔からある仏事の型をこなす方が楽です。仏事参詣者から「この仏事はおかしいのでは?」と問われても、「昔からこう決まっとるんや」で済むし,門徒が清め塩を「昔からしているから」と言えば「本来の葬儀の意味を問え」などと言うくせに、僧侶は仏事のこととなると因習の体現者になるんですね。もしこれを読んで、前から抱いていた仏事に対する疑問があるなら、どんどん声を挙げてみようではありませんか。ぞれこそ親鸞の教えに忠実だと思いませんか。

ひとくちメモ++++
【門徒】もんと monto toha?

「門徒」と「壇家」という言葉がある。江戸時代に幕府の政策で家の宗教≠ェ決定されるということがありました(それを「寺壇制度=檀家制度」といい、宗旨人別帳、あるいは宗門改人別帳と呼ばれるものを寺院が作成し、管理する制度でした。)この時の呼び名が、家=壇家、寺=檀家寺なんです。それ以来400年、家の宗教≠ヘ固定されたままです。これは全く悪いことだとは言いませんが、そこに主体的な個人≠フ選びはないんですよね。
 私たち浄土真宗の先達・先祖は、もともと個人≠ナ親鸞(しんらん)聖人が顕かにされ、蓮如(れんにょ)上人が広めてくださった「浄土真宗」を選んだんです。
個人として浄土真宗を選んだ人を「浄土門」に集う「徒(ともがら)」という意味で「門徒(もんと)」といいます。
つまり「檀家」は因習によって伝統されてきた寺と家≠ニの関係。「門徒」は主体的に浄土真宗を選び取った者の名告りです。しかし他宗派の人が「あそこの寺はモントや」と浄土真宗を浄土真宗と呼ばずに「モント」と呼ぶ場合、かなり侮蔑の意味があります。「門徒もの知らず」という言葉もありますが、「門徒もの忌みしらず」というのが本来の言葉だと教えられています。そういう意味でも私は「私の宗旨浄土真宗、宗派は浄土真宗本願寺派、は浄土真宗門徒です。」と誇りを持って言いきりたいと思います。檀家制度は明治の廃藩置県と共に廃止されましたが、寺と檀家の寺檀関係は残り、宗教が「家の宗教」という認識で現在も続いております。そのため
個人の信仰心は失われ、仏教各派とも、葬式と法事が専門の「葬式仏教」となっております。余談ですが、明治政府は檀家制度を廃止した代わりに、氏子制度という神社との関係を強制しました。また、それまで決して家の中にはなかった神棚を祀ることも強制し、国家神道・戦争の道を突き進んで行ったのです。浄土真宗は「家の宗教」から出発する教えでなく、個の救いが家の宗教となり社会一般に広まることを願っておりますので、檀家という家を単位とする言葉を極力用いません。そして、浄土真宗の教えを信仰する者すべてが、寺でなく宗門の大事な個であるという意味で「門徒」と呼んできたのです。門徒の門は宗門・一門の門という意味です。何も知らずに「檀家」という言葉を使っておられたなら、これからは使わないようにしましょう。特に浄土真宗の方でしたら、「門徒」という立派な言葉があるのですからなおさらです。



シリーズ2

真宗の葬儀作法について考えてみよう!

いざというとき迷わないように、「通夜」「葬儀式」「告別式」の違いについて考えてみましたので、次に「真宗の葬儀作法」について考えてみたいと思います。

ある仏壮会員さんの体験談ですが、姉の嫁ぎ先の家族の葬儀に行ったそうです。その家も大谷派の真宗だったそうですが、葬儀の最中や後で落ち着いて考え直してみたら、どうしてこんなことをするのだろう、と疑問に思うようなことが多々あったそうです。どうやら、迷信めいた俗習に詳しい人がいて、あれをせなかんこれをせなかんと、いろいろ話されていたようです。私たち真宗門徒にとって必要の無い作法まで含めて、です。その人いわく「葬儀のことを、きちんと勉強しておけばよかった」ということでした。つまり、葬儀の場で見受けられる俗習の意味が分からず、なされるがままになってしまい、自分ならこうする、と判断する余地がなかった、ということでした。そして私自身も、そういうお話をお聞きして、普段からの葬儀作法への取り組みは、とても大切なことであることを改めて感じさせられました。葬儀は、私たちの生活の上で、身内の死というきわめて大きな出来事にまつわる行事でありながら、そのあり方については、事前にきちんと取り組むことがほとんどない行事であります。それは「人の死にまつわる話などエンギでもない」とか、「その時が来たら考えればいい」というような思いが私たちのどこかにあり、真正面から取り組むのを阻害し続けてきた結果、とも言えましょう。また、自分が死んだ後の事は残った家族がやってくれるやろと、無責任に人まかせにしてはいないだろうか。しかし、いざ葬儀となった時には、中心となる家族にきちんと取り組む時間的余裕など無く、その場しのぎに終始してしまう、というのが実状ではないだろうか。葬儀は、その性質上あらかじめ予定など出来ない行事ですから、常日頃から、いざという時のためにきちんと取り組んでおかねばならないことと思われてなりません。

浄土真宗の常識とは・・・・

浄土真宗は往生をとげた死者に対し、生前の徳を偲び、心から礼を尽くし、死者の解脱をはかる引導作法や追善回向の作法はしないので、日常勤行がほとんどそのまま移行する形で葬儀式が形成されます。特色としては他の宗派が中心においてある授戒と引導がありません。これは普段に信心を抱いていれば、浄土往生と成仏は平生に約束されているので、死者の為に祈る必要がないとしており、祭儀的な事よりも日常の信心の心がけに重きを置いています。
 少し難しいのですが、人間にははじめから功徳など備わってないので、死者はその死んでいることの事実を身をもって示し、死を迎える準備があるかどうかを私達に教えているので、これを学び取ることで本尊阿弥陀如来に対して報恩感謝し、仏の教えを学ぶ「聞法(モンポウ)」の機会を与えるとなっています。
死人が私達に仏の教えを教えるといったところでしょうか。
他の宗派とのちがいは亡くなった人は即浄土に往生したのだから、この世をさまようような「霊」の存在は認めていないこと。
死者の旅路である死装束も不要。亡くなった人は即浄土に往生したのであり、「霊」は認めていない。死者の旅路である死装束も不要。香典も「御霊前」ではなく、「御仏前」と書きます。
「穢れをきよめる」という考えはないため、浄めの塩も不要。死者はすでに仏であるという考えです。
遺体は仏壇の近くに安置し、遺体の上に置く「守り刀」は俗信として用いません。浄土往生と成仏は平生に約束されているということは、浄土にいったので何から守るというのかということでしょうか。
死者を礼拝の対象にしない考えがあるので、供え物(枕団子・枕飯)は遺体に供えるものではないと不要となります。
葬儀終了後に設ける宴席を「精進落とし」とは言わない。施餓鬼会はしない。仏式では必然のような儀礼やしきたりはことごとく否定しいます。焼香も自らの身心を清めるために行うものと理解し、額に戴きません。(宗派で差違がありますが、本願寺派の焼香の回数は1回です。)線香を用いる場合は、本数を気にせずに立てないで横に寝かします。
戒名とはいわずは聞法者という意味をこめて「法名」といいます。寺門護持・念仏相続に尽力した人へは院号を賞典としてあたえられ、法名の前に男性は「釈(釋)」、女性には「釈尼」とつけ、道号・位号はありません。近年では女性に尼の字をつけるのは差別だとして、男性と同じにする風潮があるそうです。(注釈・・・浄土真宗では、戒名とは言いません。戒名は、厳格な戒律を守って仏道修行する自力の聖道門の人々につけられる名称であり、阿弥陀仏の本願力に信順して生きる私たちがいただく名前は「法名」です。従って、「法名」には修行の経歴を表す道号(四字や六字の戒名)や、修行の形態を表す位号(信士・居士・信女・大姉等)はありません。「法名」は「釋〇〇」というただそれだけです。字数が多いほど値打ちがある訳ではありません。
また弔電・弔辞で用いてはいけない言葉は、「冥福を祈る」「昇天されて」「泉下の人」 「幽明境を異にする」「草葉の陰の君」などです。

浄土真宗における葬儀とは(告別の式ではなく共に仏縁にする行事と考えます)ゆえに故人に対する追善回向の仏事や、単なる告別の式ではなく、遺族・知友があいつどい、故人を追憶しながら、人生無常のことわりを聞法して、仏縁を深める報謝の仏事である。全般の荘厳についても、いたずらに華美に流れず清楚簡潔のうちにも、荘重になすべきである。また、各地に行なわれている誤った風習や世俗の迷信にとらわれないよう心がけねばならない。あくまでも、道俗ともに、念仏読誦して故人を偲び、これを縁として仏恩報謝の懇念と哀悼の意を表わす儀式である。(西本願寺葬儀規範より)

「葬儀」とは、葬儀に参列された方のひとり一人が、身近な人の死という悲しい出来事をとおして、真実の教えに出遇うことによって、自分自信の在り方を根本的に見つめ直すことです。身近な人の死は私たちの心をゆさぶり、今の日常が永遠に続くかのように錯覚して暮らしている私たちに「やがて死んでいく身をどう引き受けて生きていくのか!」と問いかけているのです。
 しかし私たちは「安らかにお眠りください」「ご冥福をお祈りします」というような表現で、亡き人に対して心を配ることが「葬儀」であるのだと思い違いしているのではないでしょうか。大切なことは、亡き人から問われている自分自信の生き死にの問題を念仏の教えに聞き開こうとする心であります。ですから葬儀は宗教儀式として行なわれるのです。浄土真宗では
先祖供養は必要はありません。それが証拠に、浄土真宗の開祖の覿鸞聖人は、 《親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず》(『歎異抄』)と言っておられます。いや、そもそもわたしたちは死んだらすぐにお浄土に生まれるのです。《即得往生》(『無量寿経』)であって、死んだ瞬間、すぐさま浄土に往き生まれる。それも、仏のほうから迎えてくださるので、子孫が先祖供養をしたからお浄土に往けるのではありません。そんなこと、仏教のABCです。したがって、お葬式・先祖供養は、それが楽しいからさせていただくのです。楽しいからという表現はちょっとおかしいですが、楽しくない葬式・義務的にする先祖供養であれば、する必要はありません。お葬式や先祖供養は、あなたがあなたのため(自分が自分のために)にするのです。そういうお葬式・先祖供養をすべきです。
 だから、したい人だけがすればいいのです。先祖供養をしないと崇りがある、だからするというのでは、それこそご先祖さまを悪魔の類にし、冒漬していることになります。


シリーズ3

一向宗と一向一揆と浄土真宗はどう違う?

 

つい最近まで、私は戦国時期の歴史に登場した「一向一揆(=イコール)=浄土真宗=本願寺」と、条件反射的にイメージして「一向一揆」・「一向衆」と聞けば「浄土真宗の本願寺教団」だと理解していた。確かに石山本願寺の顕如や教如などは織田信長や徳川家康の戦国大名に反抗し「一向一揆」を組織したと歴史教科書では教えられている。徳川家康で言えば、謀臣といわれる本多正信までが反抗した「三河一向一揆」、さらには織田信長に根絶やしにされた願証寺門徒を中心とした「長島一向一揆」や紀州の雑賀衆や毛利水軍を巻き込んでの「石山本願寺の合戦」は有名である。

だから、浄土真宗の門徒である我々でさえ「一向宗=本願寺」と思い込んでいた。しかし、「なんで一向宗ではなく浄土真宗なんや。戦国時代は一向宗と呼んでいて、今は浄土真宗というのは何でやねん」という素朴な疑問は残った。なるほど、一向宗という名称は現在では聞かれず、歴史のなかでしか聞かない名称となっている。常識的にいえば今の本願寺は一向宗とならなければおかしいのではないかとその時は思っていた。

ところが大房・金照寺の住職(西川龍乗氏)から、「浄土真宗と一向宗は、必ずしも同じではないとの説があります。本願寺からは門徒衆に対して一向宗(一向一揆)に加わらないよう再三に渉って通達が出されていたという。」ということを聞いた。そこで、もう少し浄土真宗と一向一揆(一向宗)のことについて調べてみました。

 

  一向宗と浄土真宗は同一でない

中世末期の「本願寺」と「一向宗」はこれまで同一視されることが多かったが、近年の研究によると両者はイコールではない。これは本願寺の蓮如上人は、教団構成員が「一向宗」を名乗ることを禁じていることからも明らかである。しかしこうした本願寺指導層の思惑とは別に、実態として「一向宗」の人々は本願寺教団のベースに深く交わっていたと考えられている。以下そのことについて蓮如上人が「ご文章」(手紙=おふみ)のなかで、一向宗について書いているところを掲出すると・・・・・・

[『御文章』 一帖 15 宗名章]

問うていはく、当流をみな世間に流布して、一向宗となづけ候ふは、いかやうなる子細にて候ふやらん、不審におぼえ候ふ。
 答へていはく、あながちにわが流を一向宗となのることは、別して祖師(親鸞)も定められず、おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人の申しなすゆゑなり。しかりといへども、経文(大経・下)に「一向専念無量寿仏」と説きたまふゆゑに、一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、一向宗と申したるも子細なし。さりながら開山(親鸞)はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。されば一向宗といふ名言は、さらに本宗より申さぬなりとしるべし。されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり

【意訳】(蓮如の手紙/国書刊行会より )
 お尋ねします。 わが浄土真宗のことを、世間ではみなが「一向宗」と名づけています。これはいったいどういうわけなのか、疑問に思うのですが。

(蓮如)お答えします。 わが宗を一向宗と名乗ることは、とくに祖師親鸞聖人もお定めになっていません。たぶん、わたくしどもが阿弥陀仏にひたすらにお従いしているために、人びとがみなそのようにいうのでしょう。
 とはいうものの『大無量寿経』には「一向専念無量寿仏」と説かれていますが、これが「一向(ひたすら)に無量寿仏(阿弥陀仏)を念じなさい」という意味ですから、この経文によっていうのならば、一向宗と申してもさしつかえはありません。
 しかしながら、開山親鸞聖人は、この宗を浄土真宗とお定めになっています。ですから、一向宗という名前は、決してわたくしどものほうから申すべきではないと知らねばなりません。
 ところで、法然上人の流れを汲む浄土宗のうち、浄土真宗以外の諸派では、雑行を真実の浄土に往生する行として認めています。しかし、わが親鸞聖人はそのような雑行を選び捨てられました。このゆえに、阿弥陀如来のまします真実の浄土へ往生することができます。こういうわけで親鸞聖人はとくに“真”の字を入れて、浄土真宗と仰せられたのです。


夫(それ)、一向宗ト云(いう)ハ時衆(じしゅう)方ノ名ナリ、一遍一向是也(これなり)。其源(そのなも)トハ江州バンバノ道場、是則(これすなわち)一向宗ナリ。此名(このな)ヲヘツラヒテ如此(かくのごとく)一向宗ト歟(いうが)。是(これ)言語道断之(の)次第(しだい)也(なり)。…・・・・
所詮、自今(いまより)己後(いご)、当流ノ行者ハ、一向宗トミヅカラナノラン輩(やから)於(おい)テハ、永(ながく)可当流門下者也(とうりゅうのもんかたるべからざるものなり)。  延徳2年(1489)

 

「そもそも当流の名称を自他宗ともに、一向宗と呼ぶは大いなる誤りである。開山聖人より一向宗と仰せられたことはなく、その作られた文章には真宗とある。しかるに諸宗の方から一向宗と呼ばれることははなはだ疑問であるし、当流のなかで自分から一向宗と名乗ることはもってのほかである。元来、一向宗というのは時宗の側の名称であり、一遍、一向がこれである。その源は江州番場の道場であり、これがすなわち一向宗である」と・・・・・・訳す

 

蓮如上人は「ご文章」のなかで一遍の流れをくむ一向宗を自分の真宗とは違うのだと強調しているのであるが、その「真宗=本願寺教団」の内部には時宗や一向宗の勢力を内包して(取り込んで)門徒化=拡大してきたのは後述するとおり否めない事実である。それがゆえに、一向一揆の原動力となった一向宗徒の信仰は「時宗系(一向系ともいえるが、混乱するので狭義の一向宗をも含んで時宗系とする)」浄土真宗=古真宗(蓮如以前を古真宗、蓮如以降を新真宗として区別される場合がある。)であったと推理するものである。そして本願寺自身も彼ら門徒を表向きには異端といいながら、教団拡大には必要とし利用したのである。それゆえ、後世、歴史のうえからも、他宗派から「本願寺教団の門徒衆」のことを「一向衆」と称したのは、あながち間違いではない、と推論するものである。

 

   一向宗は別にあった

ここまで蓮如に否定されている一向宗とはどんなものかと調べてみたら、これまた意外と世間には知られていない宗派であった。略歴をみると・・

【一向上人】一向宗(一向衆)の開祖は、一向俊聖(いっこうしゅんじょう)(1239〜1287)である。と書かれていた。以下そのことについて、詳しく見てみたら、

一向俊聖は、建暦二年に筑後国竹野荘西好田(福岡県久留米市)で生まれたが、たまたま時宗の祖の一遍智真と同年であった。六歳のとき書写山に上って天台教学を修めるが、十五歳で下山し南都に師を求めても得られず、二十歳にして東国へ下り、法然の孫弟子の然阿良忠に師事した。三十四歳で一派を立て諸国遊行の途についたというから、法然流浄土宗の一派であったが、『一遍流義十二派略記』には「一遍上人弟子一向上人住江州番場蓮華寺建一向流義」とある。
以後、九州・四国・中国・近畿を歩き、不断念仏を執行し、踊り念仏を修すという。「俊聖ハ髪ソルヒマモナカリケル 南無阿弥陀仏ノ声ハカリシテ」と詠い、衣の裳をつけず、念仏する時は頭をふり肩をゆりておどるり、「一向弥陀一仏に限て、余行余宗をきらふ」というから、法然流浄土宗を一遍流時宗の形で布教したように見える。
また『一向上人伝』『一遍流義十二派略記』によると、近江国は中山道番場の宿場町に、付近の鎌刃城主土肥三郎元頼が一向上人に帰依し七世紀初頭に創建されその後焼失した蓮華寺を再興した。番場宿は『瞼の母』で有名な番場の忠太郎の故郷である。墓地には土肥元頼の墓と伝える宝篋印塔、一向上人俊聖の墓、そして、おびただしい数の一石五輪塔が立ち並んでいる。元弘三年(1333)京都合戦に敗れた六波羅探題の北条仲時は鎌倉に向かう途中、番場で京極氏の軍に囲まれ、一向堂前で仲時ら432人が集団自決した場所こそ「番場の峠の麓の辻堂」すなわち蓮華寺であった。

「一向宗」という名称は、鎌倉時代つまり開祖親鸞聖人の頃からあったとされ、浄土真宗を、そう呼んだわけではなく、まったく別なところから成立したものだとされている。

「一向宗」と呼ばれた宗派は、同じ浄土系の念仏宗ながらも土俗的な性格が強く、加持・祈祷・占いを生業として民衆の中に入り込むのを常としていた。山伏・念仏僧・琵琶法師などが多かったという。これは一遍上人の時宗を支えて構成した階層と同じである。ちなみに、「一向上人」の一向宗も当時は明確な宗派を確立しておらず、時宗系の一派とみなされていた。加賀一向一揆のときの一向衆のなかには白山の長吏も入っていたとされる。彼ら一向宗徒は時宗(一向宗を含む)とも重なりを見せながら、諸国を巡り歩き、祈祷や占いによって民衆の心をつかみ、信仰を広めていったのである。そして彼らは、形のうえでは、真宗または時宗(大きくは浄土系)の組織に所属していた。つまり、浄土真宗の本願寺は、内部に大勢のこうした異分子を抱えていたわけである。15世紀後半に、浄土真宗(本願寺)が急速に信者(勢力)を増やしていったのは、蓮如の精力的な活動に負うところが大きい。だが、こうした「一向宗」の力がなかったならば、とても、これほどの発展は望めなかったに違いないと、研究者はいう。

 本願寺教団は、たしかに蓮如上人の努力と一向宗(浄土宗の一宗派という位置づけ。時宗も浄土系の一派とも考えられていた。もっとも浄土真宗自体も浄土宗の一派である本願寺派と考えられていた。ここで本願寺というときは蓮如以降の本願寺教団をさす)をベースとした念仏衆徒に支えられ膨大な数の民衆を結集できるようになったが、蓮如が繰り返し唱える教義は、なかなか門徒には浸透していかなかった。ここでは「一向宗」が障碍になったのである。もともと「一向宗」というのは、教義のうえではあやふやだったから、ただ念仏を無碍一向に唱えて現世と来世のご利益を期待するばかりにとどまっていた。そしてその単純な考えが民衆にとっては蓮如の教え以上に受け入れやすかったのではないだろうか。当時はまだ一向宗や時宗の念仏信仰がベースにあった状況のなかでは、蓮如の「御文章(御消息ともいい本願寺からの通達文のこと)」も末端の門徒の行動をなかなか規制できなかったのであろう。逆に言えば、民衆の側は本願寺の貴種系譜(親鸞の出自は藤原氏につながる公家の日野家であると本願寺は教化に利用した)を逆手にとって、本願寺の権威を民衆が活用したといえる。蓮如が組織した門徒組織すなわち「講」をリードしたのは主に国衆・土豪であり、彼らの上昇志向は、守護勢力と衝突せざるをえなかったのであり、その下には真宗の教義とはかけ離れた多数の一向宗あるいは時宗の信者が現世の利益を求めて転向し本願寺教団に集まっていったと考えられる。またそのなかには信仰とまったく関係ない農民たちも、やはり現世の利益だけを求めて加わっていたに違いない。そうした一向一揆衆が加賀一向一揆を起こし、他の地域でも大きな戦闘力を持つようになった時、戦国大名たちは、これを無視できなくなっていったのである。それでも本願寺は蓮如の三代後の顕如(11代)まで権力者への反抗を禁止しており、しばしば破門という奥の手を持ち出したとある。しかし、織田信長が上洛して石山本願寺を圧迫するに至り、本願寺も一向一揆の俗的な力を認めざるを得なくなり、顕如は、これまでの態度を一変させ、織田信長を「法敵」と規定し、全門徒に信長と戦うことを呼びかけたのである。これにより、本願寺の権力者への反抗は一向一揆と後世では呼ばれることになったのである。しかも、留意いただきたいのは同じ真宗系統であっても蓮如の本願寺系のみをそう俗称されたのであり、仏光寺派や高田派などは一向衆とは呼ばれていない。当時はまだ浄土宗の一派とみなされていたらしい。また本願寺教団が拡大する過程で、高田派や仏光寺派などの他の真宗各派の信者を吸収していったことは容易に想像できることである。ちなみに当時の仏光寺派や高田派の真宗門は一向宗とは一線を画しており、戦国守護の権力と力をあわせて一向衆(一向一揆と同義)と敵対したこともあるらしい.

さて、一向一揆の総集編とも言われる本願寺(教団)と織田信長のいわゆる石山戦争はまる十年も続いた。そもそも本願寺(法主顕如)にしても各地の一向一揆に対して為政者に対する反抗を止めよとの指令をたびたび出しており、信長と本願寺が衝突したのは、思想上の相違ではなく、信長が本願寺のある石山(大阪)の地がほしくて本願寺に立ち退きを要求したのが原因だといわれている。一向一揆に時衆の影すなわち、「一向宗・時宗」系勢力があったことは先述のとおりである。本願寺から言えば一部の異端派=「一向宗派」が中心になって起こした権力者への反抗は、ここにきてついに本願寺(法主)までも同調した形で、初めて本願寺組織はひとつにまとまったのである。もともと親鸞・蓮如の真宗にしろ一遍上人の時宗にしろ、一向上人の一向宗にしろ、その念仏を支えたのは、定住型の農民よりも非定住非農耕の人々である。近江では堅田の馬借や湖族、北陸では白山系修験者、金堀り、散所に類する者などである。「一向一揆」を研究されている某は@時宗は室町時代にはかなり北陸をはじめ地方に弘通しておりA本願寺一門のなかにも時宗(衆)の者がいたことB真宗が時宗と混同され、一向宗と呼ばれたのはかなり古い時期からであることC北陸における本願寺教団の形成に大きく寄与した瑞泉寺や加賀の本泉寺では時宗の僧侶が重きをなしていた。ことなどをあげ、時宗の念仏が真宗弘通の基礎をなしていたという。さらに時宗の参入とあわせ真宗他派から本願寺に帰参した門徒群が、本願寺教団隆盛の基幹をなしたともいう。また蓮如以前の真宗を「古真宗」とし蓮如以降を「新真宗」と分けて考察するなかで蓮如以降、真宗が急激に発展した最大の要素は、時宗教団吸収によるものであると述べている。その根拠として@蓮如以降の真宗に時宗の教義が進入し異安心の問題を引き起こし、蓮如はご文章でたびたび注意しているA従来、外部から無碍光宗と称せられていた真宗が、蓮如以後、急に一向宗と呼ばれるようになったことC真宗内では本願寺門主の流れは本来親鸞廟の一留守職に過ぎなかったにもかかわらず、その一派の者をして絶対的な権威者の地位にのぼらせたのは、時宗の教義の影響であり、蓮如以前の真宗内部の伝統からは生じ得ないものであると説明している。すなわち「古真宗」こそ一向宗の担い手であり、本願寺が浄土系宗派や真宗宗派に対抗して本山としての性格を示し始めたとき=すなわち蓮如による本願寺教団の成立に結集したのが、一遍のあとを継いだ一向俊聖上人ではなかったのだろうか。だから「古真宗」は時宗の転宗というより「一向宗」からの転宗の一形態ではないかと考えるものである。逆にいえば「古真宗」は実は「真宗」ではなく「一向宗(時宗の一派という捉え方)」であったのである。そして蓮如のあらわれたあと、「一向宗」」は一斉に蓮如の「本願寺」に転宗し、蓮如時代の本願寺教団のなかの一大勢力になるのであり、この本願寺内の時宗系一向宗(衆)の勢力が一向一揆の主力をなしていくのではないかと考えるものである。蓮如は「ご文章」のなかで一遍の流れをくむ一向宗を自分の真宗とは違うのだと強調しているのであるが、その「真宗=本願寺教団」の内部には時宗や一向宗の勢力を内包して(取り込んで)門徒化=拡大してきたのは前述したとおりである。

浄土真宗が一向宗と呼称された歴史

「一向」とは、ひたすらとか一筋ということで、一つに専念することを意味している。これは「一向専念無量寿仏」の名号を称えることから「一向宗」が他の宗派より浄土真宗を指す呼称となった。一説には「浄土宗」という呼称を嫌った浄土宗による呼称とする説もある。従って、本来であれば浄土真宗の信徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える宗派であった両派が混同され、浄土教とも一緒くたに考えられるようになっていった。蓮如は「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をしているが、逆に言えばこれは、浄土真宗の門徒ですら一向宗を自称する者がいた事を意味する。こうした指導により「浄土真宗」又は「真宗」と呼ばれるようになり、浄土真宗内部では正式には使われなくなった。ところが、後に浄土真宗の勢いなどで、浄土真宗を一向宗と呼ぶ他宗派の風潮は収まる事はなかった。

宗名論争

やがて、全国を平定した江戸幕府は浄土宗を信仰しており、また苦しめられた経緯から一向宗を公式名称として用い続けた。一方、浄土真宗側は分裂などの影響があり具体的な対応が取られることがなかった。ところが、1774この事に危機感を感じて一致して幕府に対して「浄土真宗」のみを公式名称とするように求める意見書を提出し、真宗各派もこれに呼応した。困惑した、徳川幕府は意見書に対する見解を寛永寺と増上寺に求めた。寛永寺は他宗の問題である事を理由に宗派に任せる(事実上の容認)姿勢を見せたのに対して、増上寺は激怒した。増上寺は浄土宗こそが「の浄土宗」であり、異端である一向宗が「真」の字を用いる事をむしろ禁じるべきであると回答した。
翌年寺社奉行は老中と協議して増上寺をはじめとする浄土宗寺院の幕府への貢献が格別であるとして正式に「一向宗」を正式な宗派名とする事を決定した。これに対して浄土真宗各派は激しく抗議した為、その後審議のやり直しを決定したものの、実際には単なる先送りに他ならなかった。その間に増上寺は浄土宗各派に対して「浄土真宗」の名称を用いる事が出来るのは浄土宗寺院だけであるという見解を出して増上寺に「浄土真宗」の額を掲げるなどの圧迫を加えた。追い詰められた真宗側は、直訴する騒ぎとなった。これに苦慮した松平定信は寛永寺に相談して仲裁を願い出た。輪王寺宮は翌年に「3万日」間寛永寺でこの問題を預かりその後に改めて議論するという仲裁案が出されて浄土真宗側もこれに従わざるを得なかった。これを「宗名論争(しゅうめいろんそう)」という。以後、浄土真宗はあくまでも「一向宗」の呼称を拒否して門徒宗(もんとしゅう)などの言い換えを行った。


明治政府が成立すると、仏教統制の必要性を感じた新政府は浄土真宗に対して「浄土真宗」・「門徒宗」など「一向宗」以外の呼称を改めて禁じようとした。ところが浄土真宗側の猛反発を買った。浄土真宗側ではこの裁定を下した江戸幕府が滅亡した事、そして何よりも既に約束の「3万日」が到来している事を理由に改めて「浄土真宗」の呼称を認めるように迫った。これに対して新政府は明治5年(1872)になって浄土宗の手前「浄土真宗」は認めないが、略称の「真宗」であれば認めるとする見解を出した。これに従った浄土真宗の寺院は以後「真宗」を公式名称とする。そして、戦後になって西本願寺を長とする真宗本願寺派は「浄土真宗本願寺派」と正式に名乗るようになった。これに対してそれ以外の9の浄土真宗系宗派はいずれも「真宗○○派」といった呼称を用いている。現在でも同宗に属する宗派の殆どが宗派名として「真宗」と名乗っています。
法然往生後、弟子たちによる本願や念仏に対する解釈の違いから、他派などからの批判を受けました。その後、形としては浄土宗から脱退に追い込まれ、関東に拠点を移し布教を続けた結果、関東に親鸞門徒が数多く形成され親鸞が亡くなった後、独立した宗派となっていきました。
また、浄土真宗の各派は、親鸞の恩徳と、阿弥陀如来の恩徳に感謝し、その教えを説き広める法会「報恩講」を年間最大の行事としています

現在の名称になった経緯は、明治の宗教再編時で国に「宗教団体」として登録を行う際、「真宗」として申請したことから、現在の名称になっています。現在の浄土真宗本願寺派だけが、後に「浄土真宗」として申請しなおし認められました。浄土真宗は、ただ念仏を唱えていれば阿弥陀如来の御加護で、全ての人が往生成仏出来るという教えから、他の宗派と違って多くの宗教に関する儀式や習俗にとらわれていないのも特徴の一つです.浄土真宗では念仏を唱えることで、阿弥陀如来の慈悲を受けられ、且つ全ての人が浄土へ往生して成仏できるという絶対他力への信順を往生成仏の正因としています。
浄土真宗に妻帯が許されていた影響で、師弟関係中心の法脈と血縁関係中心の血脈の2つの系譜が存在しています。
浄土真宗は、鎌倉時代の初めに法然の弟子である親鸞が、法然の教えである浄土宗を継承・実践し発展させた後、自ら没したあとに弟子たちによって受け継がれ日本独自の教団として活動を続けている仏教の宗派です。


シリーズ4

浄土真宗の教義の根本を知ろう!

今日、門徒の私達にとって、浄土真宗はどのような意味があるのでしょうか。蓮如上人は、『後生の一大事』とおっしゃいましたが、今日、この言葉だけではなかなかわかりにくくなっています。

後生の一大事とは

浄土真宗では、お葬式のときに「白骨のご文章」を拝読します。その中には、「われや先、ひとや先、今日ともしらず、明日とも知らず」「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」という有名なお言葉があります。そんなはかない私たちであるから、一日もはやく「後生の一大事」を心にかけて、念仏申すべきであると言われている。「今まで生きてきた、その生き方がこれでよかったのか?」と、仏がそう問い続けているのである。「後生の一大事」とは、帰るところもなく、依るところもない、これまでのそんな人生に気づき、迷いから目覚めることである。そして「人間のはかないことは、その寿命が老少定まりのない境界なのですから、どのような人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみにして、念仏するのがよいでしょう」としめくくっておられます。

 間は一旦の浮生、後生は永生(ようしょう)の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生という事は、ながき世まで地獄におつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事と思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。・・・・・・・「後生の一大事」とは「わたしのいのちの行方」です。いつどこでどんな形で「いのち」終えるか知れない「この私」に「安心しなさい、必ず安らかな仏の国に生まれさせますよ」と呼びかけてくださる声が「南無阿弥陀仏」です。私が飛行機に乗って飛んでいる。ところが着陸するところがどこか分からない。これこそ「後生の一大事」なのです。それ(着陸場所)をお示し下さっているのが阿弥陀仏である。(お寺さんでも聞いてください。)

仏教で『後生の一大事』とはどういうことか?
後生とは我々の死後のこと。一大事とは大事件、取り返しのつかない大変なことを言う。全人類の死後に何があるのか。
 釈尊は一つの有名な譬えで教えておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。崖には松の木が生えていたが、登っても無意味、虎は木登りができる動物だ。幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、旅人は其れにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。 
下はどうなっているのだろう、と足下を見た旅人、思わず悲鳴をあげた。足下には怒涛さかまく深海、しかも波間から3匹の毒竜が大きな口を開けて旅人の落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。ところがさらに悪いころが起きた。藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。そのネズミを追い払おうと藤蔓をゆさぶったが、ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かが滴り落ちてきた。手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。蜜の甘さに旅人はたちまち、虎や龍、ネズミのことなど忘れ、蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。
 この旅人こそ万人の姿と釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、我々はそれから逃げようと必死に病院や薬を求めて逃げまわる。崖の松ノ木は財産や地位だが、億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。細い藤蔓とは我々の寿命のこどだ。まだまだ死なんぞとぶら下がっている。白黒のネズミは昼と夜。交互に寿命を縮めている。寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。
  人間は死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒涛の深海、毒龍の餌食になると説かれている。まさに一大事だ。怒涛の深海に譬えられたのは暗黒の大苦悩の無間地獄である。何故そのような世界に堕ちるのか。3匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。欲、怒り、愚痴と言う三毒の煩悩のことだ。
 人間は生きる為には仕方がないと悪を造り続ける。例えば「殺生罪」。仏教では人間も他の動物、生き物も同じく衆生である。人間が健康で長生きしたいと思っているように、牛も豚も鶏も殺されて食われたいとは思っていない。人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。動物の側から見れば、我々の一人一人が血も涙もない悪逆非道な存在なのである。毎日3度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
 これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。毎日、何回も殺人しながら平然と生きているのと同様の極悪人が我々の実態だ。そのすさまじい罪悪が未来の地獄を生み出すと釈尊は教えられる。
  後生の一大事は足下に迫っている。今日死ねば、今日から大苦悩を受け続けなければならない。しまった、と後悔しても取り返しがつかないのだ。ところが旅人はすべてを忘れて蜂蜜ばかり求めていると釈尊は言われる。蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。全人類は朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。死ねば大変な後生の一大事の起きることを知らないのだ。

 

 親鸞聖人や蓮如上人は、この「後生の一大事」を浄土真宗の教義の根本においています。そのことは教行信証やご文章(手紙)で明らかです。

まず、仏教は後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で終わることを、確認しておかなければなりません。ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、仏法は何十年聞いてもわかるものではありません。

仏教と聞きますと「年をとってから聞けばいいもの」「若いからまだ聞く必要がない」と言う人があります。後生は遠い先のことで、自分とは関係の無いことだと思っているのでしょう。しかし、いくら平均寿命が延びたといいましても、死ななくなったのではありません。100%ぶち当たらねばならぬのが後生です。だから後生と関係の無い人は一人もいないのです

次に一大事とはどんなことをいわれるのでしょうか。仏教にこんな話が伝えられています。


ある時お釈迦様が托鉢中、大きな橋の上で、あたりをはばかりながら一人の娘が、しきりと袂へ石を入れているのを御覧になられました。自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦様は、早速近寄られ優しくその事情を尋ねられると、相手がお釈迦様とわかった娘は、心を開いてこう打ち明けました。「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、今は捨てられてしまいました。世間の眼は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、死んだ方がどんなにましだろうと苦しみます。どうかこのまま死なせてくださいませ」と娘はよよと泣き崩れました。
そのときお釈迦様は哀れに思われ、こうさとされています。「愚かなそなたには、譬えをもって教えよう。ある処に、毎日、重荷を積んだ車を朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。つくづくその牛は思った。なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、自分を苦しめているものは一体何なのかと考えた。そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、牛は車をこわすことを決意した。ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、木っ端微塵に壊してしまったのだ。ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、頑丈な車でなければまた壊されると、やがて鋼鉄製の車を造ってきた。それは壊した車の何十倍、何百倍の重さであった。その車で重荷を同じように毎日引かせられ、以前の何百倍何千倍苦しむようになった牛は、深く後悔したが後のまつりであった。牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと思ったのと同じように、そなたはこの肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。そなたには判らないだろうが、死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まなければならないのだ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりもおそろしい苦しみなのだよ」と言われています。この話は、すべての人に死ねば取り返しのつかない一大事のあることを、お釈迦様が教えられたものです。これを後生の一大事といわれます。この「後生の一大事」を解決することこそが、仏教を聞く目的なのです。
この一大事の解決は、大宇宙に無数の諸仏ましませども、本師本仏の阿弥陀仏以外には絶対にできないから、お釈迦さまは仏教の結論として、「一向専念 無量寿仏」(大無量寿経)と仰有ったのです。無量寿仏とは、阿弥陀仏のことですから、「阿弥陀仏を一心に信じなさい。必ず救われます」と説かれたのです。阿弥陀仏のお力によって、後生の一大事を解決して頂いたことを、仏教では「信心決定」とか「信心獲得」、真宗では特に「
正定聚」とも言われます。それは死んでからではなく、生きている「平生」に果たされるから、「平生業成」と言われるのです。「平生」に、後生の一大事の解決という「人生の大事業」が、「完成」するということです。
その釈迦の教えに従い、29歳の時に「信心決定」された親鸞聖人は、全人類に救われるたった一本の道「一向専念無量寿仏」を、釈迦の至上命令として、90歳でお亡くなりになるまで、叫び続けていかれたのです。

シリーズ5

仏教の他界観について

「サラリーマン金太郎」や「男樹」を書いている漫画家、本宮ひろ志氏の作品に「雲にのる」という作品があります。須弥山や梵天などの仏教世界が描かれているのですが、その中にでてくる、「地居天、空居天」あるいは「二禅天」という言葉とその意味について、難しくて分からなかったので、少し調べてみました。

俗に言う、「あの世」「この世」に関する見方を他界観(たかいかん)と申しますが、仏教的な他界観に限定してちょっと書いてみようと思ったんですが・・・・ いや、伝統的な他界観を知っておくのも良いんじゃないかとハイ

というわけで、仏教の他界観に限定して話をしていきますが・・・

まず基本中の基本になるのが、「輪廻思想」と云うヤツでして、これは仏教に限った話ではなく紀元前八世紀あたりにインドを支配していたアーリア人が確立したモノとされています。
輪廻思想の成立以前では人は死ぬとヤマが統治する(閻魔人類初の死者で楽園の王)楽園でのほほんと暮らせると言ったモノでしたが、次第に「良いやつも、悪いやつも一緒ってのは違くねぇか?」といった具合になっていきまして、生前、他人様に迷惑をかけた人間は地獄行き、生前の行いが良かったものは楽園行きとなりました。生まれ変わり死に変わりという輪廻思想自体はドラヴィタ人などアーリア人以前の先住農耕民族が既に持っていた死生観ですがアーリア人はこれに手を加え善悪の果報によって来世の行き先が決定するという「因果応報」「自業自得」の考え方を確立しました。
以降、輪廻に関する哲学的考察は論理化され、歴史と共に洗練された一大思想としてインドを席巻し仏教の広がりと共に全アジアに影響を与えました。
死んでも、その次があるというのは非常にお得な感じがしますが、よくよく考えて行きますと輪廻とは再生の考えであると同時に再死を繰り返すという考えでもあります。昨今では輪廻を再生と考えあたかも良いもののように捉える人も多いですが、古代インド人は「今の一生だけでも苦しいし、一度死ぬだけでも嫌なのに何度も死を繰り返すなんて酔狂な事をやってられるか!」と考えまして、輪廻を苦しみと考え輪廻の輪から抜け出る事を究極の目標とするようになっていきました。
そういった思想背景があって、お釈迦さんをはじめ、多数の思想家が輩出され仏教と言う教えが成立した経緯がありますから仏教の他界観にはこの輪廻思想がどっしりと腰を据えておるわけで輪廻思想がなければ仏教は成立しなかったとも言えます。
さて、仏教の世界観というか他界観を大雑把に分けますと
欲界(よっかい)色界(しきかい)無色界(むしきかい)の三界(さんがい)に集約されており生死輪廻に流転する迷いの世界を三段階に分けますが、基本的に何処に行っても苦しみの世界で悟りを開いて解脱しない限りこの三界の中をさまようとされております。
この三界を見ていきますと、欲界食欲・淫欲の二欲を有するモノの世界で下から、皆さんよくご存知の「地獄―餓鬼―畜生―修羅―人間―天」と

あります。欲界の天は六欲天と呼ばれ、四天王天・三十三天・夜摩天・都史多天・楽変化天・他化自在天などを数えるも、欲界の各世界は通常・六道(ろくどう)と称され、天のなかの六欲天までは欲界とされる。

 次に、色界(先の二欲を離れたモノの住むところで、物質(色)をやや離れた微細な世界とされる)がある。

下から初禅天(しょぜんてん):梵衆天・梵輔天・大梵天
二禅天(にぜんてん):小光天・無量光天・極光浄天
三禅天(さんぜんてん):小浄天・無量浄天・遍浄天
四禅天(しぜんてん):無雲天・福生天・広果天・無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天
以上の四禅・17処を色界とし欲界よりは、レベルが上であるとしながらもなお、苦がつきまとうとされている世界です。ここに空居天がいます。
次に、無色界(物質的な思い(色相)を厭い離れた状態で、四無色定と呼ばれる哲理に至ったモノが生を受ける場所)があり三界の頂点。生前の果報の優劣によって四階級に分け空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処を数える
なお、非想非非想処は三界の頂点である事から別名を有頂天と称される。
しかし、仏教ではこの三界そのもの、いわゆる世界全体も三千大世界と言って1つではなく10億以上存在しており、それぞれが、生・住・壊・空の四つのサイクルで常に出来たり消えたりを繰り返すと説かれています。
  以下に、これらの説明の図を簡単に示しておきます。下図で見る限りでは三界のうち欲界までは六道に含まれているのですが、・・・・通常、衆生は、この六道からなる欲界の中を輪廻しているとされています。輪廻しない世界は「仏・悟りの世界」です。

三界六道一覧表

三界

六道

(住処)

(小目)

(細目)

(読み)

むしきかい
無色界

(非処)

 

非想非非想処

ひそうひひそうしょ

無所有処

むしょうしょ

識無辺処

しきむへんしょ

空無辺処

くうむへんしょ

しきかい
色界

くうご
空居

しぜんてん
四禅天

色究竟天

しきくきょうてん

善見天

ぜんけんてん

善現天

ぜんげんてん

無熱天

むねつてん

無煩天

むぼんてん

広果天

こうがてん

福生天

ふくしょうてん

無雲天

むうんてん

さんぜんてん
三禅天

遍浄天

へんじょうてん

無量浄天

むりょうじょうてん

少浄天

しょうじょうてん

にぜんてん
二禅天

極光浄天

ごくこうじょうてん

無量光天

むりょうこうてん

少光天

しょうこうてん

しょぜんてん
初禅天

大梵天

だいぼんてん

梵輔天

ぼんぽてん

梵衆天

ぼんしゅてん

よくかい
欲界

ろくよくてん
六欲天

他化自在天

たけじざいてん

楽変化天

らくへんげてん

覩史多天(兜卒天)

としたてん

夜摩天

やまてん

じご
地居

三十三天

さんじゅうさんてん

四天王

してんのうてん


修羅
畜生
餓鬼

(各処)

しだいしゅう
四大洲

倶廬洲

くるしゅう

牛貨洲

ごかしゅう

勝身洲

しょうしんしゅう

贍部洲

せんぶしゅう

地獄

(地下)

八大地獄

等活地獄

とうかつじごく

黒縄地獄

こくじょうじごく

衆合地獄

しゅうごうじごく

叫喚地獄

きょうかんじごく

大叫喚地獄

だいきょうかんじごく

焦熱地獄

しょうねつじごく

大焦熱地獄

だいしょうねつじごく

無間地獄

むけんじごく

一番最初の始まりが判らない位の昔から無限とも言える輪廻を繰り返していると考えますから仏教には天地創造と言った概念は存在しません。

ちょっと長くなりましたが、全ての有情(うじょう・命あるもの)は悟りを開いて涅槃の境地に至らない限りこの三界・六道の中で永劫とも思える輪廻を繰り返すと考えるのが、仏教の基本的スタンスといっても差し支えありません。

初期の仏教では悟りを開くまでは、輪廻の中で苦しむとされましたが、時代が下がって大乗仏教が成立しますと、阿弥陀如来の西方極楽世界などの、仏国土(ぶっこくど)が想定されるようになり、後に中国に入って浄土と言う考え方になりました。これは、悟りと輪廻の間にある避難所といった感じで、「そこで修行を積んで、悟りを開いて下さいよ」と言う初期の生天がベースになっているように思えますが、仏国土は悟りを開いた仏の世界で三界の外にあると考える説もあるので仏国土・浄土を三界の中に含むかどうかは意見の分かれる所であると聞き及んでおります。

 また、時代が下がりますと、もっとシンプルに迷いと悟りの世界を分けた十界(じっかい)が提唱され迷いの世界である六道に、悟りの世界である・声聞・縁覚・菩薩・如来の四つを加え六凡四聖(ろくぼんししょう)を説くモノも出てきました。しかし、色々とバリエーションが増えれど仏教の他界観の基本は輪廻思想と三界・六道を基本として考えますので解脱か輪廻か、どちらかの状態しか存在しません。

次に、仏教的に死んだらどうなるかを紹介していきます。ポイントは
中有(ちゅうう) 梵・アンタラーバヴァーantara-bhava または
中陰(ちゅういん)と呼ばれ、俗に四十九日と言われている状態についての話です。
仏教では有情(うじょう・命あるモノ)の生死を、

死有(しう) 前世における死の瞬間
中有(ちゅうう) 死の瞬間から次に生を受けるまでの中間
生有(しょうう・せいう) 次の世に生を受けた刹那の瞬間
本有(ほんう・ほんぬ) 生を受けてから死に至るまでの間
以上の四つのサイクルに分けておりまして、死の瞬間である死有の状態を過ぎますと、中有(ちゅうう)と呼ばれる、生きてるでも無く・死んでるでも無い、意識だけの状態を迎えることになると説かれています。

この中有の状態に関しての記述は「阿毘達摩倶舎論」や「大乗阿毘達摩大毘婆沙論」などに詳しく書いてあるんですが、1サイクル=7日で、最大7サイクル=49日残留する事が出来ると言われております。この残留期間が長いか短いかは人によるわけですが、それを決定するのは何かというと、自らの心に薫習(くんじゅう・蓄積)された業(ごう・カルマ)の力=心に染みついた習慣や癖これが、中有の滞在期間&次の行き先を決定するとされます。
ここまで書いて薄々感づいた方もおられるかと思いますが、本来・仏教では閻魔様がお裁きを下したり、天使に連れて行かれたりと第三者が介入することは無く、全て自分の心に染みついた習慣の力によって、自分にとって居心地のよさそうな場所に赴くとされています。
蛇足ながら輪廻で生を受けるのは自己の業の果報と見なすので、思春期の定番 「生んでくれと頼んだ覚えは無い!」と言うのは仏教的には通用しない理屈となっておりますから、将来に備えて憶えておくのも一興かと・・・
仏教の葬儀で死者に向かって戒を授け、戒名を付けたり、通夜の時に枕元でお経を早口で読んだり、四十九日までの一週間毎にお経を唱え説法をするのは、亡くなった人に対して慌ててマズイ選択をしないように、中有の期間一杯ギリギリまで引き留め、仏さんの教えを聞いて、心を落ち着けて、自分の心についた悪い癖を自覚し反省し懺悔して、少しでも良い境遇を選択するように話しかけている訳です。
ともあれ、この中有の状態が終了しますと(満中陰)俗に言う「旅立ち」という形になり、前世で得た大量の経験情報は消滅し、業による性質のみを引き継いだ、新たな生命として輪廻・再生を果たすとされますので、まずは一段落となります。故に、自縛霊だの幽霊だの守護霊だの輪廻を果たさず、ウロウロしているモノは仏教の分類上認められません。

 

さて、また長くなりますが、この中有と輪廻のバリエーションとしての、十王信仰・十三仏など日本の伝統的な「あの世」観についても、若干書いておこうと思います。漫画「雲にのる」にも夜摩天の地獄=閻魔王などが登場しているので若干の説明が必要かとおもいまして・・・・

伝統的な日本の他界観の代表としては、十王信仰や十三仏信仰があります。中有と呼ばれる死から生までの中間状態については触れたわけですが、インド発祥の伝統的な経論では(倶舎論・毘婆沙論・阿毘達摩集論・瑜伽師地論 etc…)この中有の状態について様々な見解を述べておりますが日本で言われるような、三途の川とか、橋渡しとか、奪衣婆などそういった牧歌的な表現はされておりませんで、死の瞬間の光明と呼ばれる状態から、意識が身体より抜け出し、意生身(いじょうしん)と呼ばれる、中有専用の身体を作り、その中有の身体で次の転生先を選択するとされております。

唐時代の末に、『預修十王生七経』や『発心因縁十王経』といった、偽経が作られますと、道教の他界観と仏教の中有を融合させた、十王信仰と言うモノが成立いたします。

ちなみに、須弥山(須弥界)の有頂天には初禅天の梵天(ブラーフマン)が位置し、夜魔天は閻魔王とも言われている。地居天の三十三天や四天王は仏像によくでてくる天の神々である。 覩史多天(としたてん)は兜卒天(とそつてん)とも云われ弥勒菩薩が住むところである。また、六欲天のうち上位に位置する他化自在天は「第六天魔王」とも言われる

須弥界は,風輪・水輪・金輪,九山八海,四州,太陽を司る神と月を司る神,星々を司る神,梵天(初禅天),欲界からなる。一須弥界は梵天とともに,生成・維持・破壊・虚空を繰り返す。生成にかかる時間は二十カルパ(中劫)(時間の単位)(一立方由旬の大岩石の上へ,百年に一度天女が降りてきて,衣の袖でその表面をなで,そしてついにその岩が擦り切れるまでの時間。あるいは一立方由旬のの器に,芥子粒を満たし,百年ごとにそれを一粒ずつ取り出して,器が空になるまでの時間。一中劫は百京年を超える),その後二十カルパの間維持され,次の二十カルパの時間をかけて破壊され,その後二十カルパの虚空が続くと,また生成が始まる。このような一須弥界の生成・消滅の反復の周期をマハーカルパ(大劫)と言う。・・・私たちが日常使う言葉として「億劫(おっくう)」「未来永劫」があるが、ここから来ている言葉である。(単なる雑学として覚えといても損はありません。)


以上は、仏教の世界観=他界観を見てみました。そこで続いて、仏教世界の中の「仏」や「天部」などについて観てみましょう。

 まずは、「阿弥陀如来」のことを知っておきましょう・・・・・浄土真宗では「阿弥陀如来」を本尊としているが、その阿弥陀如来(又は阿弥陀佛とも云われる)とは、どのような仏なのか説明しておこう。 

阿弥陀如来はその寿命が無限であることから無量寿如来(梵名アミターユス)またその光が無限に十方世界を照らすことから無量光如来(梵名アミターバ)とも呼ばれる。西方極楽浄土の教主とされる。『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経を主たる典拠として、阿弥陀如来が念仏を行う衆生を救って必ず極楽に往生させる第18願に代表される48願をもとに、死後の安楽を約束し極楽往生をかなえる仏として信仰が広まった。日本では平安時代に末法思想が広まり、一遍、法然、親鸞の念仏の浄土教が発展し、一般的に信仰されるようになった。・・・・・とまあ、軽い説明ではあるが・・・・

仏の種類は、大きくは「如来」、「菩薩」、「明王」、「天部」の4ランクに分けることができる

最高位の仏=『如来』・・ サンスクリット語で「真実から来た者」と言う意味の言葉の和訳が『如来』。最高の境地に達した存在で、最高の位にあります。単に「如来」とは仏教界で「修行完成者」「完全な人格者」を意味します。「如」は真理・ありのままを表し、「来」は文字のとおり「来る」の意味です。ちなみに、「ほとけ」と同じ意味にあたります。サンスクリット語の「ブッダ」という音を中国で「仏陀」という漢字に写し、これが省略されて「仏(ぶつ・ほとけ)」という言葉になりました。ブッダとは「悟りを開いた人」という意味です。

 如来

釈迦如来・・・・・仏教開祖仏陀釈尊の像が釈迦如来で、実在の人物です。日本でも仏教伝来と共に信仰を集めています。文殊菩薩、普賢菩薩を脇に従えた三尊像が見られます。釈迦の弟子の主な10人、十大弟子(舎利弗・目連・大迦葉・亜那津・須菩提・富楼那・迦旃延・優波離・羅こう羅・阿難)を眷属として従える例もあります。梵名:シャーキャ

阿弥陀如来・・・・阿弥陀も釈迦と同様に、もとは、インドの王子で、48の大願を立て、修行の末に如来になったとされています。ちなみに「ナム」は「南無」と書いて「帰依します」の意味。「ブツ」はもちろん「仏」で、「ほとけ・如来」の意味。「アミダ」ですが、これはサンスクリット語のアミターユス、アミターバの音を写したもので、「無量寿」「無量光」と音漢訳し、それぞれ「無量の寿命」「無限の光」を意味しています。両方の意味を含めて「アミター」「アミダ」となりました。阿弥陀如来が結んでいる九種類の印は、極楽へ迎える方法の違いを示しています。このような印をまとめて九品印といいます。阿弥陀三尊の場合、観音菩薩、勢至菩薩を脇侍で従えています。梵名:アミターユス

 

薬師如来・・・・サンスクリット語で「医者の長」と言う意味の言葉の和訳が「薬師」という名のもつ仏。薬師如来は、はるか東にあるほとけの世界、東方浄瑠璃世界の教主で、正しくは薬師瑠璃光如来という。まだ、如来になる前の菩薩だった時代に立てた12の大願の中にあらゆる病気や障害を除きたい、という誓願を立てました。ですから、日本でも古くから、病気平癒を願って多く像が作られました。日光菩薩、月光菩薩を脇侍にした三尊像もあります。ちなみに、日光菩薩と月光菩薩を従えているのは、昼も夜も見逃さないようにとのことらしいです。また、薬師如来の眷属を務める十二神将を従えていることもあります。これらは、薬師如来の家来であり信仰してくれる人を守護します。梵名:バイシャジヤグルバイドゥールヤプラバージャ

 

毘盧舎那仏・・・・サンスクリット語で「光明遍照」を意味するヴァイローチャナを音訳し、毘盧舎那仏または、盧舎那仏とかきます。毘盧舎那仏はいわば、太陽のような仏。梵語名(サンスクリット語)のXairocana(バイローチャナ・光り輝く)の音訳で広く光を照らす事で光明遍照また光輝普遍と訳される。華厳経・梵網経の中に出てくる佛で無数に釈迦を発生させて説法すると言う、時代の要求に応じて釈迦以外にも仏が現れると言う哲学的思考から過去佛・賢劫の千佛・未来佛が発生した為姿形的には釈迦と同じ表現方法を採用したと思われる。顕教に於ける三千大千世界即ち全宇宙に君臨する最高位の如来であり梵網経に拠れば100億の釈迦を顕し此処の国に於いて説法をしていると言う。
「奈良の大仏」で親しまれる東大寺大佛と唐招提寺の毘盧舎那仏が有名である。

大日如来・・・・両曼荼羅界(真理面を象徴する胎蔵界マンダラ・智彗を象徴する金剛界マンダラ)の中心となる仏。宇宙の根源とされている仏。密教界においては、仏・菩薩もこの如来から生まれる法身仏とされている。大日如来は、ほとけの王と考えられています。梵名:マハーヴィローチャナ


次期如来候補=『菩薩』・・・・サンスクリット語で「悟りを求めるもの」という意味の菩提薩たを略して、菩薩。菩薩は仏陀となることを目標に、修行に励んでいると共に、仏の慈悲行を実践衆生を救おうとします。菩薩の修行は、施しを与える、戒律を守る、何事にも耐える、努力する、真理の智慧を磨く、仏事の本質を見抜くの6つです。これを六波羅蜜とよびます。

菩薩

弥勒菩薩・・・・弥勒は釈迦在世の頃、南天竺のバラモンの名家に生まれた実在の人物とされ釈迦が未来仏について説いた時、自ら志願したところ釈迦涅槃後56億7000万年後、華林園の龍華樹の下で悟りを開くと予言された。そして弥勒は現在遥か上空の兜率天で菩薩として修行中であり、釈迦涅槃後56億7000万年後如来となってこの世に姿を表すとされている。梵名マイトレーヤー。マイトレーヤーの語源を辿ると、味方、友人を意味するミトラに辿り着く。ミトラは古代イランのゾロアスター教の神ミスラの語源であり、ヴェーダ文献でもミトラ神として登場する。ミトラの派生語であるマイトリーは友情を意味し、仏の衆生に対する慈しみを意味する。弥勒については弥勒三部経と云われる『弥勒大成仏経』『弥勒下生経』『弥勒上生経』で詳しく説かれている。

 

観世音(観自在)菩薩・・・・・梵名アヴァローキテーシュヴァラ。アヴァーローキタは見る、イシューヴァラは自在を意味する。観自在とは一切諸法の観察やその救済が自在にできると云う意味である。観世音とは世間の人々の悩める声(音)を観じ、救済の手を差し伸べる事。また光世音とも云われ、世間の声(音)を照らし出し救済すると云う意味で観世音菩薩の大慈悲をよく表している。この観世音を約して観音と云われ最も広く信仰されている。観音菩薩は『法華経』浄土経教典などに関連が説かれている。

千手観音・・・千手観音は、正しくは千手千眼観世音菩薩と呼びます。ちなみに千とは無量円満を意味する。梵名サハスラブジャ。千とは無量円満を意味する。観音の慈悲の力を最大限に強調したもので、シヴァ、ヴィシュヌ、インドラ等の影響があったものと考えられる。『千手千眼経』に説かれる。千の慈眼で衆生を見つめ、千の慈手で衆生を救う。眷属として二十八部衆や風神雷神を共に表す場合もある。全ての生き物と人々を救う事を象徴し「大悲観音」ともよばれる。

 

文殊菩薩・・・梵名マンジュシュリー。それを訳した文殊師利(曼珠室利とも訳す)の略。また妙吉祥、妙徳。妙音とも訳される。あの「三人寄れば文殊の知恵」の文殊さまで、智を司る菩薩です。文殊菩薩は、舎衛国のバラモンの子で釈尊滅後の実在の人物と云われる。釈迦如来の代表的な眷属で、普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍菩薩です。

 

地蔵菩薩・・・地蔵菩薩は釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間の無仏世界の六道輪廻する人々を救うという菩薩。梵名クシティガルバ。クシティは地、ガルバは胎、子宮を意味し、大地を包蔵すると云う意味。空を象徴する虚空蔵菩薩に対して、地蔵菩薩は地を象徴する。十三仏の35日(五七日)導師。『地蔵十輪経』『地蔵本願経』『占察善悪業報経』地蔵三教と云われ、『十輪経』『本願経』には、地蔵は釈迦入滅後弥勒が出現するまで六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)輪廻する衆生を救う任を持つと説かれる。また『本願経』には地蔵は閻魔の本身であるとされ、この諸説により六道の入口には地蔵が立ち衆生を教化すると考えられ、六地蔵が生まれた。

 

八幡菩薩・・・・八幡神社の元祖は、九州・大分県宇佐市にある宇佐八幡宮であるといわれています。八幡信仰は、氏神や産土神の性格をもって現在では庶民的なものとなりましたが、もともとは菩薩信仰でありました。

神霊の言葉に、「菩薩」の言葉が、出てきていることからわかるように、八幡信仰は、はじめから神仏混交の菩薩信仰として登場しています。これは、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)などが関係しております。応神天皇の誕生伝説によれば、天皇が生まれた時に、それを祝福して天から八本の幡が降ってきて、産室を蔽ったとあります。この伝説から応神天皇イコール八幡様となったといいます。また幡とは、仏教の場合、梵語のpataka(幡)のことを指し、仏・菩薩の威徳を示す荘厳具といいます。つまり仏を祈る時に、その徳を表すのに左右に旗を飾るしきたりが古くからあり、そのうち阿弥陀如来に参る時も八本の幡を立てるのが決まりになったことから、本地垂迹説なども加味され、八幡が阿弥陀如来の化身(垂迹身)とする説が生じてきたようです。本地垂迹説とは、本地(仮の姿をとって現れる前の仏・菩薩などの真実の姿のこと)の仏・菩薩などが、衆生を救うために、迹(あと)を垂(た)れて、つまり化身して、我が国の神祀となって現れるとする説のことです。阿弥陀とは、西方の極楽世界を主宰する仏陀の名のことでありますが、ここでは衆生を救う菩薩の意味で用いられ、これらのことから「八幡様は菩薩である」となり、八幡大菩薩とか八幡菩薩という言葉が生まれてきた。日本では武士に崇拝された。

如来の使者・化身=『明王』・・・・・・如来の教えに従わない救いがたい人間や生き物を調伏、救済する。明王の『明』はサンスクリット語でヴィドヤーラージャの訳で神秘的な力を持つ言葉や呪文のことを意味します。この力を身につけている「持明者」達の王を「明王」と呼びます。
明王の役割は如来の教えに従わない救いがたい衆生を恐ろしい姿で威嚇、屈服、救済するに為に如来の命を受けて力づくで仏の教えを導こうとする。その姿は恐ろしい外貌と激しい忿怒の相をしています。背中に、煩悩を焼き尽くす燃えさかる火炎を光背に用いる。また、顔はいくつももち(多面)、眼の数が多く(多眼)、手も足も何本もある(多臂多足)のが特徴。また、如来、菩薩は『静』の仏に対して、明王は『動』の仏です。

明王

不動明王・・・・梵名アチャラナータは「動かない守護者、無不動、不動使者」を意味する。また、アチャラナータは古代インドのシヴァ神の異名でもあり、忿怒身に姿を変え、衆生を教化し、悪を罰するだけではなく、修行者を加護し修行を達成させる慈悲の存在でもあり、修験道においても崇拝される。五大明王の中心です。

 

軍荼利明王・・・・・名クンダリー。軍荼利とはこれを音写したもの。「クンダ」とは水器、瓶、「リー」は止めるの意味でサンスクリット語では「とぐろを巻くもの」の意。軍荼利明王は宝生如来の命令を受け、様々な障害を取り除いてくれ、五大明王の中で、南方に位置します。

 

金剛夜叉明王・・・・・梵名ヴァジュラヤクシャ。金剛杵の威力をもつ夜叉の意味。
不空成就如来の化身とされ、五大明王として北方に配される。過去・現在・未来の悪と欲を呑み付くし、取り除く。つまり人間の目に見えない不浄、煩悩を全て食べ尽くしてくれる。

 

愛染明王・・・・・梵名ラーガラージャ。「ラーガ」とは赤、愛欲の意味で、古代インドの神の名でもある。愛欲煩悩が即菩提であることを開示した明王で愛を成就させてくれる。また染色、彩色に通じることから染物屋の守護神としても信仰されている。

 

孔雀明王・・・・梵名マハーマユーリ。孔雀のことである。この梵名が女性形のため、孔雀仏母、孔雀金剛とも呼ばれる。名前の通り孔雀を神格化した明王で、古代インドでは孔雀明王は僧の時毒蛇に噛まれ生き絶えたため、毒を除くことを誓いとし、諸毒や災難を取り除く

 

馬頭観音(明王)・・・・・梵名ハヤグリーヴァ。頭上に馬頭をいただくところから普通馬頭観音と呼ばれるが、梵名をそのまま訳して大持力明王、また忿怒の形相で表されるため馬頭明王とも呼ばれる。

 

五大明王・・・・金剛界五仏が忿怒の形相に変身し内外の諸魔を降伏する。「五大尊」ともいう。 中央(大日如来)→不動明王、 東方(阿しゅく如来)→降三世明王、 西方(阿弥陀如来)→大威徳明王、 南方(宝生如来)→軍荼利明王、 北方(不空成就如来)→金剛夜叉明王

八大明王・・・・・不動・降三世・大笑(軍荼利)・大威徳・大輪・馬頭・無能勝・歩擲の各明王の総称。『大妙金剛大甘露軍孥利焔鬘熾盛仏頂経』(大妙金剛経)に説かれ、八大菩薩から八大明王を現出させるものである。

 

仏法の守護『天部』・・・・・・天は天空や天上世界、あと、天上界に住まう者も意味する言葉。天部の諸天は仏法を守護するという役割を持っています。また、天部に属する諸尊のほとんどがバラモン教やヒンズー教などの異教の神で仏教が「仏教に帰依した神々」として取り込んで生み出された仏です。大きく特徴を分けると甲冑を身に付けた武人像、女性の姿をした天女像、怪異な形相の鬼神像の三つに分けられます。

天部

梵天・・・梵名:ブラフマン「梵」と漢訳され、万物の根源を意味します。帝釈天と共に天部の最高神です。古代インドのバラモン教やヒンズー教では宇宙創造の創造神とされ最高位の神とされていましたが、仏教に取り込まれて守護神になりました。二十八部衆の一人です。

 

帝釈天・・・・梵名シャクロー・デーバーナーム・インドラ。「インドラ」は帝、「シャクロー」は勇力の意味で、この部分を「釈」と音写して帝釈天と云う。 古代インドのヴェーダ神話の天界最強の軍神インドラが元とされる。雨水で地上に恵みを与え大地を潤す豊穣神としても崇拝された。仏教に帰依してからは釈迦修行時代の仏法の守護神となり、慈悲深く柔和な性質も持つようになる。梵天と共に釈迦如来の脇侍として三尊地蔵形式で安置されている事が多い。

 

四天王・・・・・古代インドでは護世神だったが、仏教に取り入れられてからは宇宙の中心とされる須弥山山頂に住む帝釈天に仕え四方四州を護る護法神となった。また須弥山の縮図である須弥壇でも中央の仏や菩薩を四方から護る。

・持国天:梵名ドゥリタラーシュトラ。持国・治国と漢訳され、堤頭頼咤(だいとらた)と音写される。眷属に乾闥婆・毘舎遮がいる。東方の守護神。
増長天:梵名ヴィルーダカ。増長と漢訳され、毘楼勒叉(びるろくしゃ)・毘ろ陀迦などと音写される。眷属に鳩槃荼・薛茘多がいる。南方の守護神。
広目天:梵名ヴィルーパークシャ。広目・衆目と漢訳され、毘楼博叉と音写される。筆と巻物を持つ。西方の守護神。
多聞天:梵名ヴァイシュラヴァナ。仏の教えをよく聞くという意味で、多聞・普聞と漢訳される。吠室羅末拏(べいしらまぬ)・毘舎羅門などと音写され、それが変化し毘沙門となった。宝塔を捧げ戟を持つ。北方の守護神。仏教では四天王の最強の神となり夜叉を従えて北方を守護する。十二天のひとりでもある。また七福神のひとりでもある。
 

吉祥天・・・・・梵名マハーシュリーまたはシュリーマハーデーヴィー。大いなる幸運という意味で、吉祥天女とか吉祥功徳天などと漢訳される。室利摩訶堤毘、摩訶室利などと音写される。古代インドではヴィシュヌ神の妃で福徳を司るラクシュミーと呼ばれていて『カーマ・スートラ』の愛欲神カーマの母でもある。仏教では徳叉迦という竜王を父、鬼神母神を母に持つ、毘沙門天の妃ということになった。七福神が定まる前は福禄寿のかわりに入れられることもあり、その美貌は弁財天の天女の姿にも影響を与えた。

 

弁才天・・・・・梵名サラスヴァティー。水多き地と云った意味で、インドのサラスヴァティー河を神格化したもの。土地に豊穣をもたらす神である。そしてこれに弁舌の神ヴァーチが同一視されるようになり、学問、音楽の神としての性格ももつようになった。妙音天・美音天・弁天と漢訳される。日本では市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視され、また観世音の化身とも考えられている。七福神のひとりでもあり、福の神としての性格を強調するため弁財天と書かれる場合もある。

 

大黒天・・・・梵名マハーカーラ。「マハー」は大、「カーラ」は暗黒という意味で、摩訶迦羅と音写され、大黒とも漢訳される。イズモの神で、七福神のひとりでもある。
 古代インドでは、ブラックホールのように全てを呑み込み無に返す暗黒破壊神シヴァと同体の大自在天の化身とされ、憤怒の魔神であった。仏教においては人肉を喰らっていた荼吉尼を改心させるために現れた大日如来の憤怒形とされる。そして日本に入ってからは、その袋を担ぐ姿の類似と、その読みから『大国主命』オオクニヌシ=オオナムチと同一視され、国津神だが福の神としての現在の信仰へと繋がっていく。


深沙大将・・・・梵名アングリマーラ。深沙神・深沙神主ともいう。信仰は明確でなく、悪鬼羅刹の類で、仏教では護法の善神となった。玄奘が流砂に遭遇した時その苦難を救ったといわれ、「西遊記」の三神仙(神通力を持った仙人=孫悟空、猪八戒、沙悟浄)の一人「沙悟浄」のモデルとされる。ちなみに悟空、八戒のモデルは中国。

風神雷神・・・・・風神雷神は二十八部衆とともに十一面千手観音に従い、この観音とその信者を守り助ける役目を果たしている。十一面千手観音に随従するのは、この観音が天候や雨水を支配するという信仰によるものと考えられる。

 

十二神将・・・・・薬師十二神将は薬師をまもる護衛隊の将で十二夜叉大将とも呼ばれる。釈迦が薬師如来の本願と功徳について説法した時、感動した十二の夜叉が七千の眷属を従えて仏法に帰依したという。各夜叉は頭に十二支の冠を戴いています。 そのうち、宮毘羅(くびら)大将・・ね(ねずみ)・・を金比羅ともいう。

 

*まだまだ、載せたい「仏・菩薩・明王・天部」は、たくさんありますが、今回は、このへんで終わることにします。興味のある方は続きを各自でお調べください。(編者)

シリーズ 6

浄土真宗にお盆の概念は無い

 私の家での8月15日でのやり取り。

「お盆やから、お仏壇におまいりしたらどうや。」

「なんで、改まってせなあかんね。」

「お盆やから死んだおばあちゃんが帰ってきてはるのや、お勤めしてくれいうて 泣いてはるやろ」

「いま、おばあちゃんは どこに いるのや」

「仏壇のなかにや」

「アホ、お寺に行って、なに習とるね。仏壇には、阿弥陀様はいても、ご先祖様は居おらんわ。」

「お盆になると、地獄の釜蓋が開いて、お精霊(おしょらい)様が帰ってきやはるんや」

「なに寝ぼけたことを云うとるねん。うちのご先祖は、阿弥陀さまのおかげで浄土にいるんちがうんか。浄土の門が開いたというのは聞いたことがないで。お浄土へは一方通行やから帰ってくるはずがないやないか」

「?・・・」

「第一、地獄の釜蓋が開いて、おしょらいさまが帰ってくるというけれど、地獄にいるのは亡者やで。地獄にはうちの先祖はおらんでしょ。みんな門徒なんやから。」

「他宗のご先祖はどうなんや。天台宗のおじいさんもおばあさんもいやはるで外には」

「もし、いやっはっても、うちの家の仏壇には入りに来んやろ。阿弥陀様がいやはるとこえ、ずうずうしく入りに来る亡者もおらんと思うで。そやけどな、たまたま子孫がいてればいいけど、子供もなく亡くなっている人の霊はどうすりゃええの?」

「なにごちゃこちゃへ理屈ゆうてんね。お寺のご縁さんも、盆には お参りにきてくれはるやないか。おまえの理屈でいうたら、浄土真宗は、お盆なんて関係ないんやろ。それなのになんで、お寺さんが、お勤めに来てくれはるのや」

「え・・?」

「もう一回、お寺に行って、お盆のこと聞いてきたら どうや」

と、いうわけで盆の呼びがあったとき、ご住職に聞きました。

お盆には盂蘭盆会と施餓鬼会がある

浄土真宗以外の仏教他宗ではお盆の行事があり、施餓鬼会なども勤めている。お盆前には、ご先祖が眠る墓地の清掃をし、盆には迎え火を焚いて、ご先祖さまを仏壇にお迎えする。盆棚にはキュウリや茄子でつくった馬・牛を置き、おしょらいさま(ご精霊)を家の前で迎えたり、送ったりする。お盆の行事は八月一日にはじまる。この日を「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」といい地獄の釜蓋が開く日である。釜蓋一日とは、本来は、旧暦七月一日のことであった。この日地獄の釜の蓋が開いて、地獄にあえいでいた亡者たちが、許されてこの世に帰るしたくをはじめる。地獄に落ちても、年に一度こうして解放され、子孫の住む家に戻ってこれる者は幸いである。また餓鬼道の亡者らを慰める施餓鬼会は阿難尊者に始まる行事であります。

お盆は毎年八月十三日から十六日まで4日間行われます。正日は十五日です。「地獄の釜の蓋が開く日」とか「先祖(亡くなった近親者)の霊が帰ってくる日」などといわれ、精霊を供養する期間とされています。お盆は本来は盂蘭盆(うらぼん)といいます。梵語の《ウランバナ》を漢字に音訳したもので、盂蘭とは苦悩を救うの意、盆とは器のことです。すなわち百味百果と称する様々な供え物を盆器に盛り上げて先祖や死者の霊を家々に迎え入れ、ご馳走して慰める(供養する)仏教行事です。起源は仏説盂蘭盆経にあり、釈迦の十大弟子である目蓮(もくれん)尊者が、死んで地獄に落ちた母を、仏法によって餓鬼の世界からすくわれたという故事からおこったといわれており、歓喜会ともいいます。また盆おどりも、目連尊者が、その母の救われたことを躍りあがってよ

ろこんだ姿に由来するともいわれている。盂蘭盆の習慣は、日本人の死後観や祖先崇拝の民間信仰の中心的な行事として古くから行われていました。(当然、キリスト教など仏教以外の宗教ではありません。)私たち浄土真宗の門徒は、盆の行事も施餓鬼会も行ないませんが、それは私たちの宗教はご先祖を追善供養するためにではなく、親も私も祖先もともに迷いから救われてるという阿弥陀如来への報恩の意味で盆の行事をつとめさせていただきます。そのためにお寺や仏壇でお念仏するのです。親鸞聖人の教えは、次の通りです。@信心は、すでに、阿弥陀仏から人に与えられています。Aその信心を受け入れるだけで、浄土に往生できます。B現在・現時点で、すでに、すべての衆生は、仏になることが決まっているのです。これを、現生正定聚(げんしょう・しょうじょう・じゅ)と言います。Cだから、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という称名念仏は、自分の浄土往生や先祖の追善供養のためではなくて、今救われていることへの感謝の気持ちを表す念仏なのです。

浄土真宗でいう現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)とは、(「現生不退(げんしょうふたい)」とも言う。)真宗教義の根幹を指す用語である。内容は、阿弥陀仏から回向された信心を受容すれば、浄土往生することが定まり、悟りを開いてになることが、その時点で決定していることをいう。つまり、今現在、仏となることが決まっているということである。

この言葉で表現されるように、親鸞聖人は、それまでの浄土教義とは異なり、信心は阿弥陀仏から人間に与えられるものであり、その信心を受容することで、浄土に往生でき、現在・現時点で仏となることが決定している(一念発起住正定聚、平生業成、即得往生住不退転)とした。そのため、(信心を得た後で)人間が称える「南無阿弥陀仏」という称名念仏は、その功徳により浄土へ往生しようとするためのものではなく、既に浄土へ行くことが決まっていることへの感謝の称名であると言うのである。余談であるが「不退」とは絶対の幸福=浄土往生ということであり、親鸞聖人の3大諍論(じょうろん)といわれるなかに、「信不退・行不退」の諍論がありますので、参考としてください。他には、信心一異の諍論、体失不体失往生の諍論があります。くわしいお話は、まずは、ご住職さんに聞いていただくことをお勧めいたします。浄土真宗では、「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」や先祖の「追善供養」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏の教えなのです。

●仏事は追善供養ではない。功徳は回向しない

亡き人は、阿弥陀如来の本願によって往生され、この世の私たちをすくおうとされているのです。これを浄土真宗では還相回向と言い重要な教えとなっています。したがって、功徳を回向してもらうのは私たちにほかありません。ですから、亡き人の仏事を機縁として縁者が寄り集まり、お寺さんを囲んで亡き人の徳をしのびつつ仏法を聞かせていただくのが浄土真宗における仏事の姿です。また、私たちが、阿弥陀如来のご本願(他力)によって往生させていただくのですから自力としての追善・追福は行いません。真宗ではそれを「平生業成(へいぜいごうじょう)」といったり、現生正定聚(げんせいしょうじょうじゅ)というそうです。それゆえに、真宗の歓喜会は盆の施餓鬼会などではなく、阿弥陀仏に報恩感謝する念仏だというのです。阿弥陀さまからの他力回向のお念仏に我々は生かされ、そしてすくわれていくのです。亡き先達の者たちも、こうして阿弥陀さまのお力、これを本願力ともいいますが、このお力によって、阿弥陀様が建立されたお浄土に往生し、阿弥陀さまと同体の悟りを開き、仏として阿弥陀さまのお手伝いをします。そのお手伝いは、還相回向(げんそうえこう)=浄土真宗の教え=といいます。

(しかし、私としては、心のなかでは、お寺の住職が何ぼ理屈をつけても、盆の時期に、お参りなどをすれば、人々は、他宗と同じように、ご先祖様の供養のため としか受けとらないのではないか。門徒には、はっきりと真宗は盆の行事はしない と言ってほしいものである。その点では、浄土真宗のお寺さんはルーズであるというか、ハッキリさせない住職が多い。盂蘭盆会の基となった目連尊者の仏教=経典を否定できないのは、心情的に理解できないことはないが、ここは厳しくシビアに真宗の教条主義的になって、他宗とは妥協しないで、もらいたいものである。世俗に妥協するからこそ、真宗の教えがいいかげんなものになって、門徒のなかにも盆にはご先祖様が帰ってくる なんて考えをする人もでてくるのである。門徒さんでも近ごろお盆するんですね。門徒さんの勢力の強いところは、しないですが各宗派がある地域では門徒さんの要望があってお盆まいりをするお寺もあるようです。実家や地域が天台宗であろうが浄土宗であろうが、そんなことは関係なく、いま、自分は真宗の門徒なのだから、現生正定聚として、正しく教えを理解してほしものである。私はお寺さんにはそのことを期待したいのであって、盆の時期の墓掃除や追善供養・お勤めなどは、逆にしないで、時期を外して普段にやればよいと思うものである。・・・心の声)

● わしゃ 死んで 墓なんかにゃ 居りゃせんで

 ある妙好人(阿弥陀様からお心をいただいた方をいう)が、友人から「あんたが 死んだら お墓に会いに行くから」といわれたときに、「そんな馬鹿な、わしゃ 死んでも 墓にゃ 居りゃせんで」と言い返したそうです。

 浄土真宗では、先祖や亡くなった人たちは、全て阿弥陀様の居られる極楽浄土に往生していて此岸(こちらの世界)には帰ってこないと考えられています。もちろん墓の中にもいませんし、成仏せずに迷って出ることもありません。先祖の霊が追善供養をしないからといって子孫に祟ることもありません。当然、他の宗派の仏教のように、年に一度の盆だからといって、家に帰ってくることも無いので、迎え火や送り火、特別のお飾りや、お供え物でご先祖をもてなす必要もありません。このことが「浄土真宗ではお盆が必要ない。お盆の概念がない」と云われる所以です。

 では、浄土真宗ではお盆に何もしないのかといえば、真宗のお寺では、「歓喜会」といい、それぞれの門徒の家の仏壇を拝みに回られるところもあれば、お寺で法要をされるところもある。だだぢ浄土真宗では、お盆を先祖供養・追善供養とは捉えておらず、亡き人を偲びつつ、仏法に接し、法を聞く機会であると捉えています。ですから、浄土真宗の方が自宅に僧侶を招き、お経をあげて(先祖供養の読経ではありません)もらい、説法を聞くということは間違いではありません。浄土真宗流の解釈では、先祖は追善供養を行なう必要がない浄土に往生されていて、仏として私たちを見守っていてくださる。その故人を追憶しつつ、共に阿弥陀如来のはたらきを喜ばせていただく行事=歓喜会と理解する。すなわち故人の追悼ではなく、亡き人をご縁として、お念仏を称える身となり仏法に帰依し、阿弥陀仏のお力によりお浄土へ救われていく身の幸せを喜ぶことであるとご縁を味わい、お盆に行なわれる法座を歓喜会というのです。ですから門徒のお盆は供養のためでなく「報恩」のための行事として、仏壇やお寺で勤めさせていただくのです。そういう意味で、お盆に家族ぐるみで聞法(み教えを聞く)することは、大切だと思いますが、逆にいえば、お盆の期間だけが特別ではないのです。常日頃の日常のお勤めもお盆の気持ちで仏法に接することこそが大切ではないでしょうか。・・・とはご住職さんのお言葉でした。

なお、余談ですが、「除夜の鐘」を私どもの寺では門徒やお寺におまいりの他の方もつきますが、よくよく考えれば、「盆」と同じで、浄土真宗の寺で108の煩悩をなくすためにつくこともおかしなことです。東西本願寺では教義に反するからと、除夜の鐘をつかないそうですが、さすがです。うちの寺もそのぐらい、信念をもって布教すればよいのですが。・・・・・実際、我が家の子どもが小さいときは、一緒に除夜の鐘をつき、あとでお寺さんが用意してくれた「うどん」や「ぜんざい」をいただくのが楽しみだったのですが、そのようなことを考えるうちに子どもも社会人となり、行かなくなりました。私も、正月の修正会にはお寺にお参りには行きますが、除夜の鐘を突くことはしなくなりました。この除夜の鐘も、真宗の寺が世俗に迎合し・妥協した姿ではないでしょうか。「もっと、しっかりせい。」と言いたくなりますわ。