谷川士清 〜その生涯と学問〜


士清の生い立ち

 谷川士清は、宝永6年(1709)2月26日、伊勢の国安濃郡八町の恒徳堂という屋号の町医者の家の長男として生まれました。 父は義章といい、医者としての評判は高く、津藩7代藩主となった藤堂高朗が生まれる とき立ち会っており、このことが後に士清と 高朗が親密な交わりを結ぶきっかけとなりました。士清は、小さい頃から福蔵寺の浩天和尚と父に教えられ、人間としての教養と 医者になるための勉強を一生懸命にしました。そして、21才の時に医学の勉強のため京都にいき、そこで様々な教養を身につけるこ とになります。


京都遊学

 上洛した士清は、医学の他に儒学や本草学など様々なことを学びます。特に、国学と密接な関係のある神道については、松岡仲良 について垂下神道を学び、「神道許状」を受けて神道家としても一人前となりました。他にも華道や歌道の許状や伝書を受けており 5年間の京都での学問生活の中で、あらゆる教養を身につけています。享保20年(1735)8月、父の義章から帰郷を促され津 に帰ります


教育者 士清

 津に戻った士清は、河北景驍補佐として洞津谷川塾を開いて教育にあたり、近くの社に神道道場を設けて神道を教授しました。 門人には津藩士や神官など様々な人物が見られ、また時には出張講座も行って、その評判は高かったといわれます。


医師 士清

 京都に遊学した士清は、松岡玄達に医学などを学び、福井丹波守から医師免許を受けています。また、医学についての卒業論文と も言うべき医論『関格異同弁』『熱入血室之弁』を著しています。家業の町医者を継いだ士清は、父と同じく評判の名医として、内 科と産婦人科を専門として地域に貢献しました。また、近くの納所河原の雄狸が難産の雌狸を助けてほしいと乞い、これを助けたと いう話があり、伝え聞いた京都大徳寺の和尚が士清の茶室に「木狸庵」の額を贈り、士清はこの茶室に「狸庵」の号をつけています。


国学者 士清

 京都から帰った士清は、「養順」という号をつけて町医者をしながら、国学の研究にはげみ、「洞津谷川塾」を開いて、多くの人 を教えました。国学とは、日本の古い書物を通じ、古くからの日本人の考え方などを研究する物です。士清の研究のひとつが、古い 時代の日本の国の歴史の本『日本書紀』をわかりやすくするために説明を加えることでした。この研究は、20数年間も続けられ、 後に『日本書紀通証』(全35巻)としてまとめられました。これは大変な努力のいる研究で、学者としての士清の名を高めました。 さらに、その中の第1巻付録である『和語通音』は、わが国最初の「動詞活用表」となりました。『和語通音』を目にして感心した 本居宣長は、士清の偉業に驚喜し、『すこぶる発明あり」と賛辞を送っています。これに刺激を受けた宣長は『古事記伝』の著に着 手するなど、ふたりの間に学問の交流がはじまり、以降手紙をやりとりするようになりました。

和訓栞の編纂

 士清は、日本語を研究する中で、言葉をひとつひとつのカードに書き、その意味や使い方を詳しく記入していきました。集まった 約2万1千にも及ぶ言葉を整理して、辞書にしました。これが有名な『和訓栞』で、全93巻にまとめられています。この辞書はわ が国最初の本格的な50音順(あいうえお順)の国語辞典で、後に日本語を勉強する人たちにとって、大変参考になりました。士清 は、長年にわたって『和訓栞』の準備をし、全部を書き終えていよいよ本にしようととりかかったとき、病気のためになくなってし まいました。安永5年(1776)10月10日のことでした。  本居宣長は、大著『和訓栞』編纂に対し、「谷川士清は国語学界の猿田彦である」という意味の序を記し、その業績を称えていま す。その後、『和訓栞』は、士清の遺志をついだ子孫の人々が本にしました。完成したのは明治20年で、士清が亡くなってから1 10年後のことでした。この頃は、今のような印刷機もなく、大変な時間とお金がかかりました。谷川家の人たちは、家の財産をな げうって『和訓栞』を完成させたのです。


考古学者、文人の士清

 現在の津市野田で農民が掘り起こした銅鐸を、士清は米一俵で譲り受けて家蔵し、のちに嗣子士逸が専修寺に寄進して現在に至っ ています。また、『勾玉考』を著し、実証的な古代史研究を展開しました。この本には珍しい石のことが書かれています。 国学以外に、和歌の道においても、『日本書紀通証』が完成した翌年、宝暦2年(1752)に有栖川宮職仁親王に入門を願い出 ています。そして入門の許しを得て以後の自作の和歌をえて、親王に添削されたものも含めて1冊の歌集にまとめています。これが 『恵露草』で、明治末に鈴鹿石薬師の歌人で国文学者の佐々木信綱によって確認された稿本が今に伝えられています。こうした歌道 への傾倒は、それまですでに最古の歌集『万葉集』についての校注を終え、古語や雅語への高い意識のあった士清にとって、いにし えの人々の心を知る上で当然の流れでありました。


士清の晩年

 晩年、士清は自らの仕事の集大成と言うべき『和訓栞』の編著に務めますが、一方で時代の大きな流れに翻弄されていきます。 それは、徳川御三家のひとつ水戸藩の編纂した『大日本史』に対し、『読大日本史私記』を著してその誤りを指摘し、痛烈に批判 したことによります。これが幕府からの弾圧を受ける要因となり、それまでも宝暦事件・明和事件で京都遊学時代の学友竹内式部を 擁護してきた士清を、藩は「他参留」(領地外への外出禁止)の処分を課し、幕政に対して批判的な考えを持っていた嗣子士逸には 『所払い」(領外追放)の処分を下しました。士清門下の津藩士も何人か罰せられ、藤堂藩藩校からは谷川学統は一掃されてしまい ました。これは、士清と親交のあった7代藩主藤堂高朗が隠退し、藩が水戸学の学風を導入したことも大きな影を落としていたとい えます。
 士清は自らの著述の原稿やメモの類を、後世が誤った解釈がされないように埋めてしまいました。これは神道家の慣わしで1代の 講義原稿や秘伝の書き留めなどは焼却するか埋めるということを守ったまでです。これが「反古塚」で塚を築いた日から3日間玉虫 が飛び回ったと言うことで、「玉虫塚」とも言われています。


士清の没後

 安永5年(1776)、生涯を学問に捧げ、その集大成となる『和訓栞』の出版を目前にして、士清は67才でなくなり、福蔵寺 に葬られました。
 その後、『和訓栞』の編纂は谷川家の人々や門人の手に引き継がれました。そして士清の没後110年余を経た明治20年(18 87)、『和訓栞』後編18巻が出版され、ようやく全93巻の刊行をみたのでした。ただし、谷川家はこの刊行事業達成のために 代々の医師としての収入の全てを投入し、家屋すらも他人に売り渡さねばならなくなりました。『和訓栞』の完成に情熱をかけた子 孫も偉大です。なお士清は、その後大正4年(1915)に従四位が追贈され、公にその功績が評価されることになりました。また、 昭和8年には反古塚の建つ古世子明神の社跡地に士清を祀る谷川神社が創建され、今に至っています。


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