●タニコメ旅日記● |
嘗て独身時代には、穂高周辺や後立山界隈を中心に北アルプスに登っていた記憶は、若かりし日の思い出として追憶の彼方にしまっておくとしても、私が現役を退いてからの山行は常に“明子”と共にあった。加齢や日常の生活姿勢から考えても体力の衰えは覆い隠せず、ましてやこの二人のセットでの山行きとなれば、願望と実行は必ずしも一致しないのが常であり、必然的にスタイルも山に「登る」から山を「歩く」に変わった。そんなスタイルでも出来る限り楽な山を見つけては国内の山も随分と歩いた。 眺望を求めては高速道路で便利になった西穂高や乗鞍へ、木曽駒や宝剣では日本のエーデルワイスと言われる「ミネウスユキソウ」を捜し歩いた。仙台郊外在住の工藤さんご夫妻という願っても無い知人の好意に甘えさせていただいての東北地方の山、八幡平や栗駒、八甲田、岩木山、秋田駒では高山の花々を堪能しコマクサにも遭えた、蔵王では見事な紅葉に出会ったりしながら、何時の時にも東北の豊かな温泉に魅了されたのだった。 そんな此処数年の山歩きは海外にも及んだ。登山電車やケーブルの世話になっての事だが、これに自分の足を継ぎ足したりして一層近付いて山を仰ぎ見た経験は幾度にもなるが、何れも4000m前後の高さであった。 氷雪に輝く様は素晴らしく、高さ以上にスケールの大きさに圧倒されるものがあって、国内の山では得られない体験をしたものだった。 2003、2のNZ(ニュージーランド)のフランツ.ジョセフ氷河では我が明子サンは初めてのアイゼンを着けて氷河を登って得意だったし、フッカーバレーを遡って麓からマウントクック3754mを仰いだ日もあった。 2003,8のスイスアルプスハイキングでは登山電車で3131mのゴルナグラートからモンテローザ4634mやマッターホルン4478mを眺めた、この時は足元遥か下に大きな氷河を見下ろしたのが印象的であった。 また、ミューレンから眺めたアイガーやメンヒ、ユングフラウも立派な山だった。遂にはアイガーのドテッ腹をくり抜いた登山電車はトップオブヨーロッパと言われるユングフラウヨッホ3474mまで連れて行ってくれて、真夏の吹雪も体験した。 2004,2月、2度目のNZでは“めいこサン”が10年来その胸に暖めてきたミルフォードトラック54kmを四日間で歩き通した、胸突き八丁の1154mのマッキノンパスの登り下りでは結構シンドイ思いもした。 2006,7月のカナデイアンロッキーでは、山脈の最高峰マウントロブソン3954mの麓のロッジを基地としたり、その後もアサバスカ氷河やバンフを基地としながら連日ロッキー山中を彷徨い、無数にある中から6本のトレイルをトレッキングした。 目的がトレッキングだったのだから、山脈にこもりっきりの6日間はザ・ウイスラー2466m登頂をはじめ連日10km前後を歩いて氷河に肉薄したり、美しい高山の花々に目を奪われたりしながら通算では60〜70kmを歩き汗を流したのであった。 内外での幾つもの経験は、私達の脳裏に4000mの氷雪の嶺の素晴らしさを印象付け、その都度充分に満足した山行きではあった。このような体験が、私にも明子にも何時の頃からか必然的に『世界の屋根といわれるヒマラヤ』の圧倒的なスケールの山のほとりを歩いてみたいという願望を醸成して来たのだった。 ヒマラヤに接する山行きのレベルは幾通りもあるようだが、私達の経験や体力、年齢を考えるとあまり無理は出来ない。今回はアサヒサンツアーの企画に乗っての旅で、従来のようなトレッキングと銘打つ行程とは幾分違う旅となった。ヒマラヤの迫力には些か欠けるが、ホテルに泊まりながら高山病の心配の無い高度までの山を歩くという、最も楽なハイキングの旅だ。 体力が残っていれば、何時の日にか今回の経験を生かして一段と迫力のある3000〜4000mクラス迄到達し、ロッジやテント生活も経験しながら一層ヒマラヤに肉薄する本格的なヒマラヤトレッキングにも挑戦してみるのも“夢”の一つとして胸の奥にしまっておこう。 こんな思いで出かけたネパールだった。今回も行程の中には観光のために割く時間もかなりあって、もっとあちこちのルートを歩いていろんな角度からヒマラヤを眺めたいという私の思いは幾分削がれたキライもあるが、モルゲンロートに染まるヒマラヤに感動したポカラの三日間や5000mの上空からのエベレスト遊覧飛行での大パノラマは充分に私の心を満たしてくれた。 夜明けを迎えたヒマラヤは想像を絶する世界であった。私達が滞在するシャングリラ ビレッジ リゾートからはアンナプルナ山群が真正面に望まれる。 一番左に見えるダウラギリ(8167)はまだ暗いが、アンナプルナサウス(7219)が、その奥にアンナプルナ?峰(8091)が、正面に一際大きくマチャプチュレ(6993)の三角錐が、アンナプルナ?峰(7555)が、?峰(7525)が、?峰(7937)が、ラムジュン(6932)がモルゲンロートに赤く染まり、次第に金色に変わって行く様は例え様のない姿であった。 マナスル(8156)は右の方、まだカスミの中だ。この一時私は言葉を失い、涙を流さんばかりにして立ち尽くしたのでありました。 まさに誰しもが一斉に同じ方向を向く瞬間であった。 天気にも恵まれ氷雪に輝くヒマラヤを堪能出来た本当に幸せな時間を過ごしたのでした。行程の実態はヒマラヤ以外にもネパールの歴史や文化を訪ねた旅でもあったが、私の脳裏に強烈に焼きついたものはヒマラヤのみであって、その他の如何なる対象でも無かったのだからタイトルも「ネパールの旅紀行」ではなく「ヒマラヤ紀行」とした。
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