W・M・ヴォーリズ氏のことを知らない人でも「メンソレータム」という薬のことはご存知の方も多いだろう。メンソレータムを作って売っていたのは近江八幡市にある近江兄弟社という会社である。不幸にしてバブル崩壊期に会社倒産という危機的状況を迎えた時、ロート製薬に「メンソレータム」という商標を売却したが、現在でも、近江兄弟社株式会社はその危機を乗り越えて、「メンターム」の会社として、存続している。社長の岩原 侑氏が当時の会社再建の過程についての物語を出版されているので、興味のある方は本屋で購入してお読みください。近江兄弟社はオウミブラザーズとして、言わずとしれたヴォーリズ氏の設立した全国的に有名な会社です。
近江八幡市の名誉市民第一号
ヴォーリズ氏は、1880年アメリカ合衆国カンザス州レブンワース市に生まれ、明治38年(1905)に英語教師として滋賀県商業学校(現在の県立八幡商業高等学校)に赴任してきました。そのきっかけとなったのは、彼が21歳のとき、カナダのトロントで開かれた海外学生伝道奉仕団大会への参加でした。コロラド大学を卒業した彼は布教活動の目的で来日を希望します。そのとき、英語教師としての口があり、近江商人養成学校といわれた滋賀県商業学校に米国から単身赴任してきます。彼は英語教師としてより、布教活動に熱心であったため、一部の人々の反感を買い、二年後には教師をやめますが、その後も近江八幡市に住み続け、布教活動を続けます。そのための経済的な糧の手段として、米国のメンソレータム会社から、パテントを借り、日本でのメンソレータムの製造販売に着手します。彼が設立した製薬会社が近江兄弟社です。彼はその事業で得た資金をもとに布教活動の一環として結核療養所(現ヴォーリス記念病院)や近江兄弟社学園、図書館を開設するほか、建築家としての才能も発揮し、近江八幡YMCA会館を手始めに国内にいくつもの建築物を設計しました。
昭和16年(1941)日本国籍を取得し、日本名、「一柳 米来留」と名乗ります。終戦のとき、国体護持・天皇の戦争責任などに関してGHQに問われたとき、天皇を守るため尽力されたと聞き及んでいます。昭和33年に近江八幡市名誉市民第一号となり、その6年後に84歳で生涯を終えられました。
ブォーリス氏は、日本に同化した米国人として、第2のラフカディオハーンとも云われています。彼は1905年に来幡して以来84歳で没するまでの間に、建築関係、学園、病院、会社(メンソレータム)、伝道と幅広く本市を中心にして日本全国に活動の領域を広げて活躍した人でした。
もう30年前になりますが、岡林信康というフォーク歌手をご存じでしょうか。現在は京都の山奥で暮らしているそうですが、時々週刊誌などに載っているので、ご存じの方もあろうかと思います。彼は近江八幡市の出身です。彼の生家は、現在のJR近江八幡駅北口から歩いて北へ1分ぐらいの「日本基督教団・近江金田教会」です。そうです、彼は牧師さんの息子さんなのです。彼は若いときからフォークをやっていましたが、その代表作たとえば「チューリップのアップリケ」は皆さんも口すさんだことはないでしょうか。彼は、早くから社会運動にめざめて、市内の同和地区に出入りし、同和対策審議会答申が出される昭和44年前後には、同和地区の若者と一緒に部落解放運動にも取り組んでいました。そうした活動の中で、作られたのが「チューリップのアップリケ」などのフォーク歌詞である。「靴とんとんたたいては〜る」といえば、どこの地域か地元ではいっぺんに分かることです。彼のフォークは、同和地区で生まれ、部落解放運動のなかで育ったものと言ってよいでしょう。
天御中主神社(あめのみなかぬしじんじゃ)のこと
近江八幡市中之庄町にある天御中主神社は、古事記・日本書紀に登場する国造りの神様イザナギ・イザナミの尊(ミコト)のその上の親神である「アマノミナカヌシ」を祭祀している神社である。ちなみに、「アマテラスオオミカミ」は、伊勢神宮に祭られているが、その親神である「イザナギ・イザナミ」の両神は、滋賀県の多賀大社に祭られている。また、その近くの彦根には「蛭子神社」もある。記紀神話をよくご存知の方なら、ご理解願えると思うが、「イザナギ・イザナミ」が国生みをして同時に、多くの天津神々を創造される時に、骨のない神が生まれ、葦の舟に乗せて流すのである。それが「ヒルコ」神話である。天(アマ)の神々の系譜で言えば、近江八幡→多賀→伊勢と移動していることになる。つまりアマの元親が「アマノミナカヌシ」神なのである。「オノコロ」島伝説も市内には存在しているがここでは省略する。とにかく現在、記紀神話に言うところの「高天原」は、ニニギノミコトが天孫降臨した日向の高千穂説が有力であるが、畿内説もまだまだ多い。そのうちの一説に「近江高天原」説もあることをご承知願いたい。野洲町の銅鐸の例を見るまでもなく近江八幡市内にも銅鏡や未盗掘の竪穴式石室が発見された雪野山古墳、5世紀中期とされる千僧供古墳群や、県下で最大最古といわれる瓢箪山古墳の前方後円墳の遺跡や、さらに縄文時代の水茎遺跡や弥生時代の大中の湖南遺跡など多数存在している。そしてこれら多数の遺跡から、昔古代(縄文・弥生時代〜古墳時代)に、海人(アマ)族といわれる海の民が、南の海からやってきて、九州を経て瀬戸内海に入り、大阪湾から淀川・宇治川を遡って琵琶湖に入ってきたという説が引き出されたのである。彼ら「海人族」はそれぞれのグループをつくり、アズミ族、ワニ族、オキナガ族というように呼ばれた。アズミ族は九州国東半島を根拠にした阿曇(アズミ)の連(むらじ)の一族で、県内では安曇(アズミと書いてアドと呼んでる)川、安土(アドのチ)があり、遠くはアヅミノが有名である。またワニは因幡の白ウサギにでてくるワニ一族と同一で和邇浜という地名が琵琶湖大橋の近くにはある。オキナカ゛族は湖北に本拠を置き、息が長いという意味の海人であることが分かるし古事記・日本書紀などにも登場してくる一族で蘇我氏や物部氏と同じくらいに有名である。つまり、彼ら海人族が琵琶湖に入りそこに定住して「くに」=近江高天原を作ったというものである。この説は畿内邪馬台国説(その中にも大和説や近江説に分かれているが・・)の根拠ともなっているものである。しかし、歴史学的には不確定な説ではある。今後ますます遺跡調査の進展により明らかになっていく部分でもある。しかし、「日本書紀」には「ワニの祖日触の臣の女が、応神天皇の妃の一人」と記されているので、現在の日牟礼八幡宮の始祖はワニ一族の日牟礼氏であったことが窺える。ちなみに応神天皇は日牟礼八幡宮の祭神であり、その皇后はオキナガタラシヒメ云われた神功皇后であることは、戦前の国家神道を学んだ方なら周知の事である。さて、前置きが長くなったが、天(アマ)とつく天津神系統は元は海人(アマ)のことであったと解釈される。それが神武天皇以降おなじ天(アマ)の神を使ったので同一視されて、記紀神話に多少混乱があるようだが、本来は別系統であったと思われる。神武系統の天孫族はここでの海人族とは別で後発組であったと理解される。それで先発組のアマ族の始祖は、誰かというと、記紀にいうアメ(アマ)ノミナカヌシというわけである。そこから、イザナミ・イザナギが生まれ、多賀に移動し、大和政権と融合することにより、その子孫は伊勢神宮へと昇華されアマテラスオオミカミとなり、天皇一族の祖となる根拠を与えられるのである。以上が「天御中主神社」にまつわるお話である。ちなみに、この神社には明治の海軍神といわれた「東郷平八郎」元帥の書かれた額が飾ってあり、いまも参拝客は全国からバスでお参りしています。
住蓮坊遺跡のこと
近江八幡市内の馬淵町にある「住蓮坊遺跡」は、浄土宗の方や浄土真宗の方は、よくご存じのことです。歴史的にも大きな法難の一つで有名だからです。よく知らない方でも、鈴虫・松虫と住蓮坊・安楽坊の物語ぐらいはご存知でしょう。その法難で京の河原で首を切られた住蓮坊の首塚があるところか゜「住蓮坊遺跡」です。この時の法難により、浄土宗の開祖である法然上人は土佐へ流罪となり、その地で亡くなり、またその法然の弟子で、住蓮・安楽坊とは兄弟弟子であった浄土真宗の開祖、親鸞上人も佐渡へ流罪となっています。
安吉(あぎ)橋の鬼の話のこと
「今昔物語集」の卷27第13には、安義(吉)の鬼の話が出てきます。「鬼が出るという安義橋へ駿馬に乗って行った男が、女に化けた鬼に会い、追われたものの逃げ帰る。その後、弟に化けて家にやってきた鬼を入れてしまって男は鬼に喰い殺されてしまう。」という物語である。この今昔物語に出てくる安義橋の鬼こそ、現在、馬淵学区にある安吉橋のことです。学生時代に今昔物語の中にこの鬼の話があって、まさか地元のことが記されていたなんて、とっても感動しました。この安義の鬼は、全国的にも羅城門の鬼と同じぐらい有名な鬼なのであります。映画にもなったことがあり、現在ではビデオ化されており、レンタルビデオ屋でも手軽に借りられます。関心のある方は、一度ご覧下さい。いまや鬼はマイナーな存在ではありません。大江町では酒呑童子を、岡山では桃太郎伝説と温羅(うら)の鬼伝説を、また茨木童子(羅城門の鬼の名)を中心とした町おこしが全国的にも有名ですが、本市の安義の鬼も、他の鬼説話と匹敵するぐらいの鬼なのです。全国的にも誇ってもいいと考えます。
次のページに進むには、ここをクリックしてね!ちょっとHだけれど