織田信長は何故に安土に城を造ったのか

  その理由の1つに、織田信長の先祖(ルーツ)は近江八幡出身であったからという話がありますが、ご存じでしょうか。

 織田信長は、戦国時代の三傑(信長、秀吉、家康)の一人として、有名であり、イノベーション時代といわれる現在、織田信長の安土維新ともいわれる改革は、現在の日本社会においても、教訓を多く残しているところである。その織田信長は、もともと尾張の守護大名の家臣の家に生まれたことは、歴史を知る者にとってはよくご存知のことではあるが、その先祖をさかのぼれば始祖は近江八幡市の出身であったということまでは、ご存知ない方も多い。以下そのことについて述べておきます。


  織田信長のルーツ(先祖)のこと (平氏の血脈と津田氏から織田氏へ)

  1平氏     2.津田氏    3.織田氏
     源平の合戦
平の清盛の曾孫・・親実が織田の初代
 津田郷にて生育
敦賀の織田神社へ養子となる
 織田剣神社の神官兼武士として
 越前守護斯波氏に仕え敦賀から尾張へ

        織田信長と近江八幡市の関係・・・・・・織田有楽斎(信長の弟)の話

東京の有楽町は、織田有楽斎の屋敷があったところから「有楽町」となったというのは、有名な話である。その織田有楽斎は織田信長の弟であり、茶人としても有名な人である。淀君の伯父にあたるが、関ヶ原の合戦では東軍につき、大阪の夏の陣では大阪城にいながら徳川家康に情報を伝え、大阪落城前に退出したという人物で、どうも合戦は苦手だったようである。その御仁が徳川幕府に差し出した系図によると、織田氏は本姓が平氏だということになっている。つまり、信長の先祖は平清盛だという。その系図・家譜によると信長のルーツは次のように理解されている。            

 平清盛(きよもり)の長男が重盛(しげもり)であるが、その重盛に資盛(すけもり)という子がいた。源平争乱の時、寿永2年(1183年)のこと、資盛ら平家一門の人々は、木曽義仲らに追われ西国へ落ちていった。そして平資盛は壇ノ浦で戦死する。ところが、資盛に妾がおり、彼女は妊娠していたため一緒に西国へ逃げることができず、この母某が津田の豪族の娘であったことから、実家である近江国の津田郷にかくれ住み、そこで一人の男の子を産んだ。その男子というのが平親実(ちかざね)である。しかし源氏の世であったため母方の津田姓を名乗り津田親実と称したが、生育して、越前国織田庄の剣神社の神主(忌部某)に養われ,その後、荘(庄)名を苗字として織田親実と名乗ったという。これが織田の初代であり、織田という苗字の発祥であるとされている。織田氏は越前国織田荘(福井県丹生郡織田町)の領主(荘官)だった可能性が高く織田氏のルーツだったのはまちがいない。そして周知のごとく越前の守護は斯波(しば)氏であり、斯波氏は越前のほか尾張・遠江の守護も兼ねていたことから、越前守護の斯波氏に仕えた織田氏が尾張守護代として尾張に派遣された。これが尾張織田氏のはじまりであり、その名を織田伊勢入道常松といったという。
その後、尾張に移転した織田氏は伊勢守系統と大和守系統に分かれて骨肉相喰む織田家の争いとなった。尾張の織田一族は、信長の時代にはいくつかに分かれており、本家筋の織田氏は尾張の守護大名であった斯波氏の守護代であり、信長の父信秀はその織田家(大和守)の家老職であった。しかし最終的に織田の傍系であった信長が本家筋の織田氏を滅ぼして尾張織田家を統一するのである。そしてその織田家が統一できたとき、信長に天下統一への道が開かれたのである。
余談であるが、信長はよく「人間50年・・」という「敦盛」を舞っているが、「若くして討ち死にした平家の公達敦盛を自分の先祖に投影していた」ものではないだろうか。
 なお、信長が弟である「信行」を殺して父の家督相続をするのが、尾張統一の最初の行動とも言えるのだが、その弟「信行」の子(信長の甥となる)を「信澄(のぶずみ)」といい、彼は織田軍団の将として活躍し明智光秀の娘を嫁にしていた。その関係で本能寺の変において信長の子織田信雄(のぶかつ)に殺されることになるが、その姓名は「津田信澄」と名乗っている。これも、先祖の津田姓をとったものかと思われる。信長の周囲には不思議と津田姓の親族衆が多く歴史書にみられるので留意してみてください。
 とにかく、近江国の津田郷とは、すなわち現在の近江八幡市である。北津田町なのか南津田町なのかということまではよくわからないのだが・・・ともかく織田信長が安土もさることながら、この近江八幡市に深く関わっていた人物であったと言うことはご記憶にとどめていただきたい次第である。

 また、織田信長に関わっては、この近江八幡市に城をもっていた「柴田勝家」のことも覚えていてほしいものである。秀吉の長浜城、光秀の坂本城は有名だが、同じ時期に柴田勝家は近江八幡の長光寺城の城主であったことも覚えていてほしいものです。のちに「北の庄」(福井)へ転封していったので廃城とはなってしまったが・・・・瓶割柴田の名前はまだまだ有名である。この名前の由来も、瓶割山という地名が市内にありますので、ご存知の方も多いと思います。

 次は豊臣秀次のこと