異聞・豊臣秀次

異形者に関わる陰の系譜と豊臣一族
 みんなが思っている「豊臣秀次」公像                       
  「豊臣秀次」公像についての世間一般の評判は、醜聞としての殺生関白であったり、また秀吉の甥であるがゆえの苦労知らずの若殿様であったりする。少し歴史なりを知っている人であれば、政治的に謀殺された悲劇の宰相としての認識であろう。
 本市においてもNHK大河ドラマ「秀吉」で、甥の秀次を偉人・善玉として描いてほしいという陳情がなされたことがあった。豊臣秀次は本市の基礎である八幡山下町という町の開祖であるから、りっぱな人であってほしいという感情や願望は理解できるが、通史として歴史に残っていることを、それは間違いだったと覆すにはよほどの反証資料が必要でしょうから、天下のNHKが、はたして脚本を変更するなどとは残念ながら考えられません。正史にある「豊臣秀次」公のことについては近江八幡郷土史研究会からも本が出版されているし、市販の図書にもありますので、通常の一般的な秀次のことは、そちらにお譲りします。ここでは、異端ともいえる見方での豊臣秀次公像を従来の通説とは違った視点で推論していますが、近頃はそれらが定説になりつつあります。
  ●異形者の系譜・・豊臣秀次(PDF版)
なお、織田信長の先祖は近江八幡出身だったということは、すでに、このHP訪問者には常識のことと思いますが、繰り返し上記のPDF版にも載せてありますので、ご了承のうえお読みください。 

異形者とは
  豊臣秀吉の出生については諸説あります。「絵本太閤記」「真書太閤記」などは後世に創作されたものであり、秀吉が関白になったときの右筆でお伽衆の大村由己に書かせた「関白任官」
「天正記」では、中村の百姓ということですが、百姓が「日吉丸」などという大層な名前をつけるでしょうか。後世の創作みえみえです。おそらく、そうであろうと思われる出生(出自)は、関のタタラの娘=ナカが産んだ子で、サンカ一族ではなかったかという説が有力になっています。
 弟の秀長も血はつながらないが、おそらくサンカ一族には間違いないと推定される。後年、秀吉の御伽衆の一人にアヤタチムネというイズモ族(鉢屋衆)がいたことは間違いない。ソロリ新左衛門という人も御伽衆のひとりだが、荒吐(アラバギ)族につながる者だとも言われており・・・・豊臣家に限らず当時は、闇の系譜の人々が歴史上に登場した時代である。得川の家康にしても、先祖は新田郷から三河に流れてきた願人坊主である。人とは貴族と上級武家であり、その他庶民は人扱いされていなかった。ゆえに、その時代を人は「下克上」という。
一般に私たちは、「まつろわぬもの」の系譜を「鬼」と呼んでいる。

 市内の長光寺城跡(俗に・・甕割山ともいう)から鈴鹿を望む
柴田勝家が福井の北の庄に行く前の居城跡
  坂本竜馬は、明智一族・・・本当!
坂本竜馬の家紋は「桔梗(明智紋)」である。明智光秀が山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れたとき、光秀の娘婿で家臣の明智左馬之助秀満の庶子が土佐に逃れ、才谷村に住んだ。坂本家はその才谷家の分家で郷士になった。坂本竜馬の坂本は「坂本城」の坂本である。ゆえに家紋は「明智の桔梗紋」なのである。これは世間の常識だそうですぞ!。
このように近江八幡には、埋もれた歴史がいっぱいあります。どうぞ探索をしてみてはいかがですか

 秀次公について、私の書いた小説もどきも、ごらんください
 今昔物語に出てくる「安義の鬼」について書いた一文もあります。よろしければどうぞ!