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TEL. 059-235-0536

〒514-0817 三重県津市高茶屋小森町字向山1732-11

歴史と沿革

雲出井土地改良区事歴年表

元    号 西  暦 事           項
正保 3年 1646 伊勢国一帯大旱魃
西島八兵衛翁雲出井水開鑿に着手
慶安 元年 7月 1648 雲出井水完成 延長7,200間
雲出村庄屋笠井又兵衛を井守に任命
雲出井水管理9ヶ条制定
明歴 4年 1658 雲出井水管理「定条々」制定
延宝 8年 1680 雲出井水管理「定」制定
明治 12年 1879 四ッ野分水約定書締結
   23年 1890 水利組合条例制定
   24年 1891 雲出井普通水利組合創設
昭和 16年 1941 雲出井用水路改修工事着手
   19年 1944 大東亜戦争の影響を受け工事中断
   24年 6月 1949 土地改良法制定
   26年 3月 1951 土地改良区に改組
戸木、本村、雲出井に加入
   27年 9月 1952 雲出川土地改良区連合結成
   28年 1953 雲出川沿岸用水事業として雲出井用水路改修工事再開
   28年 9月 台風により川方地内堤防決壊
   29年 1954 新家坂額地内用水路直線化
   30年11月 1955 木造制水門設置
   32年11月 1957 戸木、小戸木、本村、角落し設置
頭首工改修に着手
   35年 3月 1960 頭首工完成 蛇川排水路改修
   40年 4月 1965 君ヶ野ダム建設に着手
   42年10月 1967 台風34号により頭首工左岸ブロック被災
   45年 7月 1970 台風2号により頭首工右岸ブロック被災
   46年 3月 1971 君ヶ野ダム完成
   46年 9月 台風29号により頭首工右岸蛇籠被災
   47年 9月 1972 台風20号により頭首工止水壁被災
   49年 7月 1974 集中豪雨により頭首工右岸止水壁被災
   54年12月 1979 頭首工護床工改修に着手
   55年11月 1980 稲代川サイフォン工事着手
   56年3月 1981     〃      完成
頭首工護床工完成
戸木、地蔵坂下、本村橋、転倒堰完成
   57年8月 1982 台風10号により牧堤防と新家取水口被災
平成 3年10月  1991 津市高茶屋地内に事務所新築
   4年11月 1992 向山団地下用水路改修に着手
   5年 3月 1993      〃      完成
   5年 雲出井用水路改修工事計画樹立 57,800万円 L=6,159m
   6年 1994     〃     に着手   630,000,000円
   9年 1997 駐車場整備 面積430u
  10年 1998 戸木、小戸木、新家、木造、転倒堰整備
戸木掛の橋改修
平成13年 3月 2001 雲出井用水路改修工事竣工  総工事費629,324,000円
平成13年10月 2001   〃   竣工記念式典

1 開祖 西島八兵衛翁

名は之友(ゆきとも)(もとの名は之尢(ゆきまさ)、寛永12年(1635)之友と改めた)、八兵衛は通称。
慶長元年(1596)遠州浜松に生まれました。
慶長17年(1612)17才で伊勢津藩主(伊賀を併治)藤堂高虎に仕えました。

慶長19年(1614)19才で大阪冬陣、元和元年(1615)20才で同夏陣に従って大功があり、元和5年(1619)24才で徳川氏が京都二条城築造の際、高虎より命ぜられてその図面を引き、また同年、大阪城修築の際、その見積を差し出して工事に従事し、その手腕を認められました。

更に元和7年(1621)26才のとき、生駒正俊36才で病死、その嗣子高俊11才で襲封、このため正俊死後の後片付けを高虎に命じられ、讃岐に派わされました。

寛永2年(1625)讃岐の国の大旱魃に際し、高虎公の外孫高松藩主からの申請により、寛永16年(1639、44才)まで15年間讃岐生駒藩に客臣として聘せられ、郡村のことを掌り、初め禄五百石でありましたが、寛永6年(1629)7月には禄千五百石を与えられ、同7年8月、五百石増されて禄二千石を給せられ、後二千石のほか鉄砲30人、新田270石を加えられました。

その間、溜池を改修したり新設すること実に95ヶ所、灌漑面積2,200町歩に及びましたが、その最も多きなるものは、かの有名な満濃池の改修工事でありました。そのほか、香東川の水路の付替え等治水面でも数多く功績を残しました。

寛永16年(1639)讃岐より帰勢後、同18年(1641)46才で幕命により讃岐に遣わされ、同19年(1642、47才)及び正保3年(1646、51才)の大旱魃に際し、藤堂藩の命により伊勢、伊賀の領内を巡回、つぶさにその惨状を視察し、井堰の改良、溝渠の開鑿、溜池の改修を行いました。その大なるものは一志郡雲出井手及び阿山郡山畑新田の開鑿で、雲出井手では西島八兵衛翁の遺徳を偲び、水分(みくまり)神社を建立して祀りました。

慶安元年(1648、53才)、城和奉行(山城、大和の幕府開拓領五万石支配)となり、万治元年(1658、63才)伊賀奉行に転じ、伊勢より伊賀に移りましたが、後任の城和奉行死亡のため再び城和奉行に復職、延宝4年(1676)81才で辞職するまで、29年間大いに治績を上げました。辞職後は伊賀上野に隠居、拙翁と号し、書道に親しみましたが、延宝8年(1680)3月20日、85才で病歿し、上野市(現在の伊賀市)紺屋町正崇寺に葬られました。

法名は釈智賢居士(しゃくちけんこじ)という。


《西島八兵衛之友事歴年表》

 天皇  元号  西暦 将 軍 藩 主 事    項
後陽成  慶長元 1596 豊臣秀吉   遠州浜松にて出生
(初め之尤、寛永12年以後之友)
後水尾 17 1612 徳川秀忠 藤堂高虎 伊勢津藩主藤堂高虎に仕える(17才)
禄150石
19 1614 大阪冬陣に従う(19才)
元和元 1615 大阪夏陣に従う(20才) 禄200石 
1619 京都二条城築造、大阪城修築の工に従う(24才) 禄300石 
1621 生駒正俊病死に付その後片付けに来讃(第1回 26才) 禄400石
1623 禄500石
寛永2 1625 徳川家光 生駒高俊 生駒藩に出仕のため来讃(第2回)
この年観音寺市柞田町出在家の湿田を改良し農業を移住せしむ(30才)
1627 香川郡香川町川東立満池、高松市川部町小田池、坂出市福江町福江大池を築く
木田郡三木町氷上山大寺池築造に着手(32才)
1628 仲多度郡満濃町吉野満濃池復興に着手
木田郡三木町氷上山大寺池竣工
高松市三谷町三谷池増築
三豊郡高瀬町二宮瀬丸池を築く(33才)
1629 この年江戸へ呼び戻され禄1000石
間もなく讃岐に出向(第3回)
観音寺市豊田町池尻仁池増築(34才)
禄1500石(外に鉄砲者30人)
明 正 1630 三豊郡高瀬町麻岩瀬池増築
観音寺市粟井町岩鍋池増築(推測35才)
禄2000石(外に鉄砲者30人、新田270石)
1631 藤堂高次 満濃池復興完成 仲多度郡満濃町炭所東亀越池築造に着手(36才)
11 1634 観音寺市中田井町一ノ谷池築造に着手
(39才)
12 1635 木田郡山田町西植田神社内池を築く
(40才)
14 1637 高松市松島町より同新川に至る堤防を築く 高松市福岡、木太、春日新田を拓く
香東川の水路を附替えたという高松市史(昭和7年編)の記事あり(42才)
16 1639 一ノ谷池完成 三豊郡五郷井関池増築に着手(果さず)
生駒騒動にて去讃、帰勢(44才)
18 1641 幕命により讃岐の諸事裁決のため来讃
(第4回 46才)
19 1642 伊勢、伊賀大旱に付き藤堂藩の命により領内視察、井堰改良、溝渠開鑿、溜池改修を行う(47才) 禄1000石
後光明 正保3 1646 藤堂高次 伊勢国で大旱魃
雲出井水工事に着手(51才)
慶安元 1648 7月 雲出井水完成(延長7,200間)
城和奉行となり山城、大和の幕府開拓の五万石を支配(53才)
鉄砲者30人を預けられる
後西院 万治元 1658 徳川家綱 伊賀奉行に転じたが、同年後任の城和奉行死去のため復職(63才)
霊 元 延宝4 1676 城和奉行辞職(81才) 伊賀上野に隠居
1680 徳川綱吉 藤堂高久 この年3月20日病歿(85才)
伊賀上野紺屋町正崇寺に葬る
12 1684 水分神社建立
大 正 大正4 1915 この年11月10日 正五位追贈
(死後235年)


2 組織の変革


(1) 雲出井用水路の始まり

寛永19年(1642)、伊勢の国一志郡一帯は稀に見る大旱魃で稲は皆枯死し、収穫は皆無でありました。さらに3年後の正保3年(1646)には再び凶作に見舞われ、農民は餓死寸前でありました。二代目藩主藤堂高次公は江戸に在ってその事を聞き、家臣西島八兵衛翁と共に津に戻り、八兵衛翁に命じて領内を巡回させました。地域の惨状を見て回った八兵衛翁は、藩主の許しを得て雲出井水開鑿の大工事に着手しました。川上の戸木村で雲出川から分水し、水路を掘り進め、高茶屋で水を3分(高郷井、八寸、揚溝)して、高茶屋、雲出地区まで網の目のように用水路をめぐらそうとするものでありました。

工事は村人達の人力により、八兵衛翁は陣頭に立って指揮に当たりました。土地の高低を測るため、夜間に提灯を立て並べたというエピソードが物語るように大変難しい工事でありましたが、途中にサイフォンの原理を応用するなど八兵衛翁の優れた技術と村人たちの血のにじむような辛苦の果て、慶安元年(1648)に完成しました。水路の延長は7,200間(13q)で、本郷、長常、伊倉津など雲出の村々14ケ村600町歩の田畑がその恵みを受けることになり、1万石近くの収穫の土地が潤ったのでありました。

しかし、高茶屋の四ッ野で水を3分して高茶屋や雲出に送りましたが、しばしば水の配分で争いが起きました。八兵衛は、水位が変化しても常に公平な水の配分が出来ないものかと思案を重ねました。ある日、妻の小便する姿を見てはたと膝をたたきました。小便の始まりに尿が左右均等にほとばしりました。この原理を応用したのが四ッ野分水で、以後争いごとはなくなったとも伝えられています。恩恵を受けた郷民は深く八兵衛の徳を頌し、毎年伊勢神宮に参拝し、神楽を奉奏し大麻を贈ってその健康と子孫繁栄を祈りました。

翁の没後(1680)、四ッ野分水点に水分神社(俗に八兵衛宮という)を建立し、翁への感謝と豊作を祈願する祭典を行ない、その翌日、通水を開始することになり現在に至っています。四ッ野分水施設は、昭和47年6月20日、津市教育委員会より史跡に指定されました。

《雲出井の維持管理》

雲出井が完成すると、西島八兵衛は慶安元年(1648)雲出村庄屋・笠井又兵衛を井守に命じて、用水の管理について細かく指示をしました。

井水は、溜池とちがって、大雨のとき水量調節が大切で、雲出川から取水する水量の加減をする井口の管理から、溝さらえ、堤防の破損修理についても常に注意をしなければならないなど指示を与えています。

                                    雲出用水路


西島八兵衛から笠井又兵衛に出された9ヵ条のうち5ヵ条を上げると、次の通りでした。             

一 今瀬せきあげのかげん第一に候、細々見廻候、而、石俵くさり候ハハ取かへ、
 くずれ候所をばつきなをし、湯流口へ川水よくのり候ごとく可念入事、付大雨
 ふり可申気色に候ハハ何時も湯流の戸をさし可申、此段、戸木之加兵衛にも
 申付候間、常々相談可仕候事
一 稲代川のつきあて、其外古川迄の井溝うまり候所有之者、無油断さらへさせ
 可申候事
一 石せきより雲出までの井溝うまり候所、又ハつつみそこね候所於有之ハ、其
 領内きりに修理仕候へと、其村々庄やへ申渡し、其方もともどもに肝をいり可
 念入候、同井水をみだりにいやが上かけ候所有之は其庄やへ相届、我ままに
 させ申間敷事
一 四野のわけまたより、北へ水を分候義ハ、その時々此方より可申遣候間、可
 得其意候、無左候ハハ下としてわけ遣し申間敷候、小森より北郷水つまり申
 候ハハ急き此方へ可申聞候事
一 戸木より雲出までの間大井手の義ニ付いづれの村にても疎略仕候もの於有
 之者、有体に此方へ申聞候、少もゑこのひいき仕間敷候事

(文中の読点は読みやすいように編集しました)

と、あるように雲出井の管理について庄屋笠井又兵衛に指示し各村々で行わせました。その後、明暦4年(1658)、延宝8年(1680)の2回にわたって、雲出井手郷中へ「定条々」「定」が出され、庄屋や年寄がその受書に署名押印して約束を守ることを明示しています。延宝八年の井郷名は、本村、川方村、牧村、新家村(以上、旧久居市)、小森村、上野村、藤方村、垂水村、八幡村、島貫村、雲出村が記されています。




                      雲出井水掟書
                         雲出本郷町 笠井家文書















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