●タニコメ旅日記●
世界最高峰ヒマラヤの大地を歩く 11月11日(6日目)

〔ヒマラヤを眺めながら終日ハイキング〕
** 今日も素晴らしい夜明けだ
 5:45AM,薄暗がりの中に何かが見え始めた。今日も素晴らしい天気のようだ。6:00AM,見る間に正面の山が!、雪嶺が!、影絵から青白い輝きの山に変わってきた。
 私達の部屋の正面がマチャプチュレだ、別名フィッシュテール(魚の尻尾)と呼ばれるようにダブルピークの山なんだけれど、ここは竪位置だから一つの三角錐に見えて凄い迫力だ。
ヒマラヤ
薄暗がりの中に何かが!

 6:20AM、どの嶺も東側側面が黄金色に輝きはじめた、今日も素晴らしいモルゲンロートだ!。間もなく太陽が右手の山からカオを見せるだろう。
 6:30AM,太陽が山の端に出て来た。この瞬間の山の輝きをパノラマに写して、取り敢えず朝の準備だ。こんな素晴らしい天気が続くのは奇跡的なようだ・・・。ラッキーな気分で朝食に行こう。
 7:30AM,朝日を全身に浴びたヒマラヤだ、雲一つない。目の届く範囲で左から順にダウラギリ(8167m)/アンナプルナサウス(7219m)/アンナプルナ?(8091m)/マチャプチュレ(6993m)/アンナプルナ?(7556m)/アンナプルナ?(7525m)/アンナプルナ?(7937m)/ラムジュンヒマール(6966m)が、夫々特徴あるピークを見せて白く輝いている。
更に右側に連なって見えるマナスル(8157m)は遠くカスミの中だ。中でも一番近くに位置するマチャプチュレの尖った三角錐は圧倒的な迫力で迫ってくる。こんな身震いするような光景も後僅かな時間でガスや雲に包まれるのだろう。ハイキングに出かける前の時間を吸い付けられたようにして眺めたのでした。
 明子さんは、例によってスケッチに余念が無い。そりゃそうやなぁ―、こんな凄い場面に出くわすのは生涯でも何度も無いよなぁ!。

** 2000mから眺めよう
  今日は終日ハイキングの日。5〜6時間かけて恐らく10数kmを歩くのだろう、かなりのアップダウンもあるようだが、最も期待していたハイキングだ。この日の目的は、云わずもがなだけれど、ヒマラヤ山脈の麓に分け入って距離的にも標高でも少しでも近くからアンナプルナ山群を眺めながら歩くことだ。一層高い所に登って眺めるのだから、一段と迫力を増したピークを見せてくれるだろうと大いに期待して出かけたのであった。

   * 一人ひとりにポーターをつけて
 距離やアップダウンはかなりなものが予想されるが、何と言っても今日のハイキングでは客一人に一人のポーターが付くのだから私達は手ぶらで行動出来る。私はカメラとノート、キャンデイーやゼリーを入れたウエストポーチにストック。明子サンは肩から懸けたポシェットに、イタリア製のダブルストックのみ。多分これは失業対策みたいなもので、現地に何がしかのお金を落とすようにした政府か何かの要請でもあるのだろう。

* カーレ(Khare)1770mまでバスで
 8:00にシャングリラを出発したバスは、昨日と同じルートを辿って「セチ川」沿いから山間部へ入って行った。昨日と同じように、子供達がつくる関門をくぐり抜けながら・・・・。昨日車を降りたノーダラを通過した辺りからは道は一層急勾配になり大きなカーブも多くなった。
  この辺りまで来ると、カーブを曲がる度に一段と大きくなったヒマラヤのピークが見え隠れして、所々になかなかのビュースポットがあった。多分9:00を少し過ぎた頃だったと思うが、ここ二日ほどのポカラでの滞在でヒマラヤが見える「時間帯の法則」を知った私にしてみれば、ここでホンの5分間バスを止めて、改めて眼前に迫ってくるヒマラヤを、マチャプチュレを見たかったのだが・・・、ホンの僅かなシャッターチャンスが欲しかったのだが・・・。
 そんな気持なんぞにはお構いなく、バスはカーレに向かって驀進して行ったのだった。“山の中の行動なんて、ハイキングなんて、付け足しみたいなもんだから、取り急ぎ済ませてしまいたい行事なんだ”  “要するに、このガイドは古都や寺院などネパールの歴史や文化についての「知識」を植え付けたいんだ、「情操」なんてものに興味は無いんだ、まるで日本の初等教育みたいに”。私の心には、このように映ったのであった。
 ネパールにきてから昨日までのガイドの姿勢で、この旅行企画のコンセプトの曖昧さに不満を感じていたが、私の不信感は一層深まって行った。
ヒマラヤ
カーレ(1700m)から観るマチャプチャレ(6993m)

* 総勢40人ばかりの大キャラバンになって

 カーレで待っていたポーター達と合流、昼食造りのためにダンプスへ先回りしているコックのカルマを含めて総勢40名ばかりの大キャラバンに膨れ上がった。お互いの名前を相手国文字で書いたテープを胸に貼り付けた、つまり私の名前をネパール語で書いてもらったものだけれど、私達にはこれを“右から読む”のやら“左から読む”のやら判らない始末で思わず笑ってしまった。
 片やポーター達の名前はカタカナで書いて胸に貼り付けられた。私のポーターは老人の「カミ」さん(歩きながら聞いたら55才だった)。明子のポーターは若い青年の「ヌルヴォ―」。
 ここで夫々のリュックを渡して担がせた、大した重量ではないが私達は全くの手ぶらだから楽チンだ。飲み水が欲しい時だけ『パニー』(みず)と叫べばよいのだ。

* オーストラリア ベースキャンプに向かって
 9:40分ようやく動き始めた大キャラバンであったが、ほんの暫く畑の中を行くと間もなく急な登りになり、息を切らして一休みした斜面には満開のヒマラヤサクラが咲いていた。一息入れた後は間もなく森林に入って行った。引き続き緩急のある斜面を登り、ちょっとした谷川の所での休憩時に気づいたのはシャクナゲの大木であった。
ヒマラヤ
オーストラリアン・キャンプ付近をハイキング
 良く見ると辺りの斜面には到る所、林になって大小のシャクナゲの木(現地名“ラリグラス”)が生えている。ヒマラヤの麓へ行くとすれば、山そのものが見える季節にしますか?。それとも花の季節にしますか?。
 旅行社はこんな質問で希望を確かめるけれど、それは勿論シャクナゲの花の事だというのは最近知った。「シャクナゲの花」といわれても、それ程の事はなかろうと見くびっていたけれど、こんなに一面に生えている木に一斉に花が咲けば凄いことになるのだろうと想像して納得がいった。勿論今は全く花は無い。
 何度かの緩急を繰り返し、最後は林の切り通しみたいな峠を越えたところがオーストラリア ベースキャンプ2100mであった。  手ぶらとはいえ、急激な登りで高度差300m余りを稼いだのだから大分汗をかいた。
 こんなところにオーストラリアBCというのはどういう事?。随分昔のことだが、オーストラリア人が来て,ヒマラヤを眺めるビューポイントとして此処にキャンプしながらトレッキングした。それがその後にも引き継がれてオーストラリア人がトレッキングの途中には必ず泊まる常設みたいなキャンプになっているのだそうだ。
 確かに、ここは2100mだから私達が滞在するポカラの900mに比べれば相当な高地であり、位置的にも大分方向が違っていて、フィッシュテールと呼ばれるマチャプチュレの魚の尻尾のようなダブルピークを見る絶好のポジションであった。このピークが三角錐に見えるポカラとは45度ばかり角度が違っているようだった。
 私達がこのキャンプに着いたのは既に11:15分頃であったから、この頃には雲の切れ間からマチャプチュレの魚の尻尾が辛うじて見えただけで、ポカラから見たようなアンナプルナ山群の全容も見えず、チラッと見えた魚の尻尾も間もなく雲の中に消えてしまった。この時を最後に、後は一日中白い山を見ることはなかった。悠然とした、“氷雪に輝くヒマラヤのピークを眺めながらのハイキングを楽しむ”という目論見は昨日と同様今日も又実現しなかったのは残念だったが・・・。
 ここからは、午前中登ったのとほぼ同じだけの高度差を、変化の乏しい道を下って1799mのダンプス(Dhampus)の村で昼食になった。

* 日―ネパ友好の一時
 時刻はすでに13時になっていたが、ここダンプスの「レストラン SAKURA」で、先乗りしたコックの“カルマ”が造ってくれたランチを戴いた。メニューは、インスタントラーメンをアレンジしたようなスープ/揚げパン/ジャガイモの煮物/大豆のトマト煮./キューリのサラダ。さして美味いという程ではなかったが全部戴いた。昼食後の紅茶はなかなかのものだった。
 食休みにはネパールの歌“レッサン・ピーリーリー”の勉強会をし、現地のダンスにも何人かが参加して日―ネパ(と云うのかどうか知らないが)友好の一時を和やかに過ごした。ここダンプスは如何にも山奥の1800mという高地にありながら、学校もあり、レストラン(長机が置いてあるだけだが)もあって一つのビレッジではあるようだった。
ヒマラヤ
 昨日行ったノーダラやカスキコットと云い、この国の人々は何故こんな高地に住むのだろう、必ずしも平地が少ないからとか、貧乏だからと言うだけの理由ではないような気がする。山の斜面は、もう見慣れた「耕して天に到る」という感じで棚田になっていて上の方は「あわ」下の方は「米」がつくられていた。
 勿論家の周りには水牛やヤギ、ニワトリなど自家消費程度の数は飼育されているようだった。話は変わるが、ネパールでは“牛”は神の使いだから食ってはいけないが、“水牛”はOKなんだそうだ、各所で水牛肉が出るが柔らかくて美味しい。
 こんな光景を見ながら歩いているのだけれど、どうしても2000m近い高地に住まなければならない理由というのは外国人の私には見付けられなかった。
 ダンプスからフェディ(Phedi)1200m迄は殆ど下り一方だが、山の斜面というよりも村の道だから、高度差600mにも及ぶ石段が延々と続いていた。恐ろしく急勾配の段々があり、緩斜面ありだが驚くほど丁寧に造られた石積みが、いつ果てるとも知れず続いていた。
 私達は多分人生で只一回だけこの長い石段を、しかも下るだけだけれど、ここに住む人々は何回でも登ったり下ったりするのだろうな!。偶々大きな荷物を担いで登ってくる人に出会ったが、これがダンプスまでの通常の道だとすれば行き来するなんてのはと・・・私には信じられない思いだった。
 フェディで待つバスの所まで降りてきた頃には皆一様にヒザの苦痛を訴えていた。確かに、私もこんなカタチの山くだりは初めての経験だった。

* 忠実なパートナーだった「ヌルヴォ―」
 明子サンに付いた、ポーターの「ヌルヴォ―」青年の献身ぶりは大変なものであった。少し危険な所では常に彼女の右手をとり“奥様お手をどうぞ!”の体制をとるのであった。あまり広くない山道、自分の足は道を外れ,時には崖の縁に足場を探しながら一日中彼女を支え続けた純朴な青年の行動には好感が持てた。お陰で我が明子サンは気持よく“マッダーム”気分を堪能した一日でありました。
 勿論私の方の「カミ」さんも立派でありました、危険な所でも、手を出すと私がイヤがるものだから、常に後ろに回って危険な側に手を延ばしているのは私も知っていました。「カミ」さん――神さん――私の神さんだから一日中『オーマイゴッド』と呼んでいた55才のオジサンでした。

* オブラートと格闘していた「ヌルヴォ―」
 歩きながらキャンデイーなどを差し出すと“ニーッと”笑って美味そうに舐めていた。休憩の時渡した“ゼリー”は大変だった。セロファンは剥いたが、もう一巻きのオブラートを剥こうとして懸命に摘んでいるが、くっついていて上手く取れない。『ノーノー!』、私が同じ物をオブラートのまま口に入れて見せると、ようやく納得して口の中で舐めていた。
 知らなかったのだ!。可笑しくもあり、“いじらしく”もあった。
 片や、私の「カミ」さんは、差し出すとうやうやしく受け取るのだけれど、ついぞ口にしている姿を見ることはなかった、多分ポケットに入っているんだろう。甘いものは嫌いなのか「?」、否、きっと家に帰れば「喜ぶヒト」が待っているに違いない。婚礼の客として招かれて行った父親の、帰りの折詰めを待った子供の頃がふと脳裏をよぎったのでありました。

* フェデイで解散
 大キャラバンもここで解散となる。ここで夫々が用意してバスに積んでおいたお土産、というほど大げさなものではないが、日本食や菓子類の包みを渡し、ガイドが決めてくれた些少のチップを渡した。この場で双方代表が、意義ある一日を過ごせた事の謝意を述べて握手で別れた。
 この時「カミ」さんがハニカミながら、何処で手に入れたのかマチャプチュレの写真が入った絵葉書一枚をそっと差し出してくれた。『有難う!喜んで戴きます、記念にとっておきます!』。お陰で、私達は楽なハイキングを楽しませてもらったけれど、今尚貧しいネパールの高地に住む人々には多少のアルバイトになったのだろうか「?」「!」。
 こんな一日でも日―ネパ親善の一助になったとすれば喜ばしいことだと思った。結構疲れてシャングリラに帰り着いたのは16:30ごろであった。

** 素晴らしかったシャングリラでの滞在
  リゾート気分のポカラでの滞在も明日午前中まで。明朝サランコットの丘から日の出のアンナプルナ山群を見た後は再びカトマンズへ戻る予定だ。少なくとも私達が滞在した時のポカラは亜熱帯気象というのか南国風のユッタリした雰囲気の街であった。特にここシャングリラ リゾートホテルは、私達に提供されたR306の部屋からもヒマラヤが遠望できるロケーションの良さも手伝って、気分を良くさせた一因だろう。
 所が私、夕食後に「ハラ具合」が悪くなった。昼間「風邪気味かな」と感じるノドの痛みもあったので取り敢えず「ベンザ」と「ビオフェルミン止しゃ薬」、それに「セイロガン」を飲んでベッドに入った。
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