●タニコメ旅日記●
エベレスト街道を行く 3月15日(3日日)

―― ようやくエベレスト街道へ ――

※ ※  カトマンズからルクラへ小型機で
早朝だからバスはバンバン飛ばして、6時前にはカトマンズの国内空港に着いた。 待ち構えていたサーダー以下数名が私達の荷物を一気にチェックインカウンター近くへ運んでくれた。 こんな早朝でも地方空港は相変わらずワッサワッサの混雑ぶり、こんな有様 で荷物なんかチャンと着くのか知ら不安だが、それでも上手く廻っているのだろう。  
  地方空港の手荷物チェックは特に厳しい、リュックも開けて中味のチェック。  ライター、電池などは特にウルサイ。  ボデイーチェックもあるから、入り口は男女別々だ。  Yeti Airlines、Flight No T。(イエテイーは雪男の意)。  6:50の予定だがLUKLAの天気情報入らず差当たり7:15にDelay。  完全な有視界飛行だから、天気良くなければ飛ばない。  「天気回復」の情報に、待合室からバタバタとバスに乗せられて機体の傍まできたけれど・・・、目的地のルクラは又視界不良になりバスで待機。
 7:20「天気回復」、ソレ―ッと乗り込んだ。  Twin Otte r 機 DHC6/300。  18人乗り 乗客は私達のグループ以外に3人の白人女性。  操縦桿を握るのは美人パイロット、何となく気分がイイ。  後刻、ルクラに着いて明子が向けたカメラにポーズをとってくれた、アホか!そんな事はどうでもエエ事や、この急いでいる時に・・・何を考えてんのや!。
 7:30丁度に無事離陸、40分ばかりのフライトだ。
※   不時着?
30分ばかり飛んで、谷間の段丘みたいなところに滑走路らしきものが見えて来た時、機はスパイラルに2回ほど旋回して着陸した。 着地の感触はクルマで砂利道を走っている感じだった、8:00頃の事だ。 イヤー着いたぞ!!。 予想外に早くついたな!。 と思っていたら、実はここはルクラでは無かった。 ルクラは只今滑走路が混み合っていて着陸できないから、この訳のわからない砂利道の空港に不時着したらしい。 地図で探したら、此処はPHAPLU(パプル2400m)らしかった。
 只の原っぱに出て待機。 する事はないし・・・。
不時着「?」 ばかに早いと思ったら ここはルクラでは無かった


 機の陰になっている所のフェンス際で立ち〇〇〇しようとしたら、崖の上の兵隊にアッチへ行け!と銃で指図された、ヤバイヤバイ。 丘の上のバッテイ(お茶屋)でお茶していたら、突然に発進の報、慌てふためいて乗り込んだ。 9:40AM発進。 昔の田舎のバスみたいにジャリ道滑走路をアッという間に離陸した。 機内から見る下の風景は、まさに耕して天に至る、見事な段々畑の縞模様が地図に描かれた等高線のように整然と見えていた。 再び機の左側遠くに白い山の連なりが見え始めた9:50頃、ようやく今度は本当のルクラに着陸した。
 ほんの一ッ飛びのつもりのフライトだったが・・・カトマンズを飛びたってから2時間かかっていた。 これも自然との折り合いをつけながらの事だから仕様がない。
※   ルクラ空港(LUKLA)の滑走路
 丘陵地の斜面を利用した滑走路。 着陸時は登り傾斜になっていて、短い滑走路でもブレーキが利きやすくなっている。 こういうスタイルの滑走路は世界中には幾つも例があるらしいが、後刻滑走路傍を通りかかった時に眺めると、かなりキツイ勾配だった。 当然離陸時は坂を走って下る事で加速する訳だけれど、滑走路の先端は深い谷底、真向かいには山が迫っているから、さぞやスリルがあるだろうな「!」。 帰りが楽しみというか怖いというか・・・。
ルクラの空港急坂の滑走路の先は崖、向かいの山も迫って・・・


※   此処で今回のパーティーの全容が出来上がった
 サーダー(シェルパ頭):テンバ シェルパ。 シェルパやコック、ポーター達全てのまとめ役(親方)だが、特に今回の私達のような寄せ集め集団の場合には山に入れば全て(客も現地ガイドも)サーダーの指揮下に入る。 サーダーやコックはカトマンズからの同行であったが、他のシェルパやプライベートポーター達は大勢でルクラに待機していた。 サーダーの希望で彼の息子もポーターの一員に加えたいという事で、そうなれば仕事にアブレル一名との間で一悶着あったようだが、ようやく結成された集団は24名に膨らんだ。
客 8名+添乗1名=9名。
サーダー      1名
コック長      1名
キッチンボーイ   1名
シェルパ      3名
プライベートポーター 8名
現地ガイド     1名
計          24名。

コック長、キッチンボーイ:朝起きると直ぐモーニングテイーと洗面器一杯のお湯のサービス。 朝食サービス、朝は毎日味噌汁とお粥を作ってくれたのは有難かった。 昼は、少し先行して予定のロッジかバッテイ(お茶屋)で、着いたら直ぐお茶(紅茶)のサービス、次いで昼食のサービス。 夜はロッジにて夕食のサービスの他にお湯や湯タンポを用意してくれる。 食料の材料は行程中ずーっとシェルパが運んでいる。
 シェルパ:客が、主としてロッジで使う用品を入れたバッグ(食料が入っていたりして重い)や全ての食材、寝袋などを逆台形の竹篭に入れて運ぶ大変な力持ち。 ロッジでは各部屋への荷物や寝袋の配達、翌朝の回収など。 プライベートポーター:一人一人の客が行動中に必要な飲み水、外衣、雨具やオヤツなどを入れたリュックを担いで客と同時に行動する。

※   ルクラから歩き始め、今日はパクディン(Phakding)まで
ルクラは標高2804mだから、すでに立派な高地だ。  今日は一旦ドゥ-ド.コシの川辺(2500m辺り)まで下り、一寸登った2610mのパクディンのロッジを目指す、軽いアップダウンの道だから足慣らしになる。  こうして10:50分、トレッキングの本格的な第一歩が踏み出されたのだった。                  

憧れの『エベレスト街道』 を歩く嬉しさに 元気ハツラツ、 心ウキウキの明子サン

 ※  プライベートポーター     私に付いたポーターは「パサン」、16歳の少年だが一丁前の働き手だ。  明子さんには「ソナム」、29歳、妻と子供が二人いる、なかなかの好青年。  再びルクラに戻ってくるまでの行程中よく役にたってくれた。  ちょっと一休み、『パサン!パニー!』と叫べば直ぐにリュックの水筒を出してくれる。  明子さんに到っては、チョットした岩場の崖道の登り下りや片側が千尋の谷底みたいな、ややヤバイ所に差し掛かると必ず『ソナム プリーズ!』と、始めは呼んでいたが、その内呼ばなくても、状況を見て彼の方から「奥様 お手をどうぞ!」みたいに手をとってくれての行進だった。

※  今日は割合坦々と  
  いきなり白いピークが見える、クスムカングル(6367m)のようだが、遠くてまだ実感が湧かない。  随所でこの山が見えるのだけれど、誰もまだジックリ眺めるという風ではない。
濃いピンク色の ラリグラスの大木が満開です (ネパールの国の花)

 ルクラの街の上の山にはもう“しゃくなげ”(現地名ラリグラス、ネパールの国の花)が咲きはじめていて目を引く。  道端のあちこちに咲いているのを見ると濃い真紅あり、ややピンクがかったのありでなかなか多彩だ  出だしの今日は割合ゆるい下りをダラダラ下って行き、時々短い登りがあるという感じだ。  よく整備された石畳あり、土ほこりの道になったりするが、この道は生活道路であり又、生活用品から木材やセメントなどの生産財まで運ぶ幹線道路(と言えば聞こえが良いが、只の山道)でもあるのだ。  石を敷き詰めて整備している所で幅は、せいぜい2m程度他は山の斜面を一寸削った程度のものだ。  幹線道路とは言っても通るのは“人”と“四足”だけなんだから・・・。  やがて、左下の方にミルキーブルーの流れが見えて来た、ドゥード・コシだ。  今日は一旦あの川辺まで下る。
ミルキーブルーに輝く ドウード・コシを見て 感激! シェルパ族には 母なる河だ



※   仏塔やマ二石などに行き当たったら必ず左側を通れ
 大きな岩に経文が刻まれていたり、経文を刻んだ石を積み上げた塚などが随所にある、この傍を通る時は必ず左側(それを右に見て)通過するように!。  何故そうするのかは理解出来ていないけれど・・ハイハイそうしましょう。
※  ドウ−ド・コシ
エベレスト方面の氷河から来るイムジャ・コーラ(支流)を集めた立派な河だ。
                                氷河水特有の、ロックフラワーを含んだ水は独特の色を呈して私達を喜ばせてくれる。 ちょっとした深みでは鮮やかなミルキーブルーに、激流部ではミルク色に見える、因みにドゥ−ド・コシというのは「ミルク色の河」という意味らしい。 シェルパ族の人達には特別の思い入れがあるようで、立ち止まって眺めていたり、カメラを向けたりしているとサーダーのテンバ・シェルパが寄ってきて“ドド・コシ”(DudhKosi)と教えてくれる。 行程中何度も聞かされた。 この河はシェルパ族にとっての「母なる河」なのかも知れない。  
 人里にはサクラが咲き、山にはモクレンが咲いて、標高2800m前後のこの辺りは日本の早春を思わせる長閑な風情だ。 私達が歩いている同じ道を、背中に大きな荷物を括りつけられた“ゾッキョ”や、逆台形の竹篭に載せて、自分の背丈をはるかに越える大きな荷物を担いだポーター達が追い越して行く。 あの重い荷物を担いでいながら、私達を追い越して行く、いくら訓練されていると言ってもオドロキだ。

※   驚くべきポーターの怪力と「一本立てる休憩」
 逆台形の竹篭の上にはみ出して、20Lらしいポリビンを横に並べて二段重ねの四本(勿論中味入っている)とか、20〜30kgはありそうな穀物らしいものの袋を3段とか、どう見ても80kg以上はありそうな荷物を、帯状の吊り紐で“ひたい”で担いでいる。 長さ4mはあろうかと思われる2×4の木材10本や、5mmばかりの合板を10枚重ねとか・・・。
2×4×?にギョッ 角を曲がるときは これ又、大変なことだ


 私にはとても信じられないような重量を担いで急な坂道やヨジ登るような岩場の道を運んでいる。 それ程立派な身体ではないのに・・・只ただ驚くばかりであった。 ポリの大きな樽を4本横二段にして担いでいるのを見たクリシュナ−は、あれは160kgだ、と言っていた。 それは一寸大げさという気もするが、全くのデタラメでも無いような凄さだった。  
そんな彼等でも結構頻繁に小休止する。
ポーターの休憩用の台、 担いだまま休むときは 写真中央下のT字形の杖を 荷物のつっかえ棒にする(一本立てる)

彼等は、木を削って作った、太いT字形の杖状のものを常時手に持っている。 岩壁など手頃な場所を見つけてはT字形の木を籠の底に当て、壁に荷物を預けながら立って休む、決して地ベタには下さない。 こんな休み方を「一本立てる」というらしい、私達が普段使う「一服する」と同じようなことだ。 そりゃそうだろう、ナンボ力持ちの彼等でも地ベタからでは二度と立ち上がれんゾ!。

※   ゾッキョ
 物資輸送手段のもう一人の主役は“ゾッキョ”と“ヤク”だ。  “ヤク”サマには未だお目にかかっていないから、後日のお楽しみだけれど、何でも、ゾッキョは高地では生存出来ないし、逆にヤクは低地では生存出来ないのだそうで、詳しいことは解らないがその境界は標高3500m辺りにあるようだった。
“ゾッキョ”はヤクと牛のあいのこ(混血)。  おとなしくて力持ちらしい。  背中に大きな荷物を括りつけられて、隊列を組んで「ムッシムッシ」と登ってくるが、時々、何かの拍子に、ドライバーにドッチカラレテモ、「ムット」して動かない事もあるようだ。  そりゃー、毎日々こんな重い荷物担がされて行ったり来たりばかりではイヤになるだろうよ!。

※   初めての昼飯
 私達の隊列も崩れて、何時しか足早の組と遅い組に別れてしまった。 というより、私達夫婦だけが取り残されてしまった、と言うのが正確なようだ。 これで良いのだ!。 これがおれ達の歩き方なのだ!。 おれ達はおれ達のやり方で楽しみたい、キョロキョロあちこち見ながら、出来ることなら10分間の休みを幾つかつくって、明子サンに早業のスケッチでもさせてやりたい位だ。 始めと終わりの時間を決めておいて、皆夫々の能力や、やり方で行程を進めれば良いのだ。 小学生の遠足みたいに、皆んな連なって動くのは疲れるし、面白くもなんともない。 夫々に気持の良いスピードがあるのだ。 どうやらこのパ−ティ−にも相当足の早い人がいるようだ。 それはそれで勝手にやってくれれば良いことだ、スピード競争しに来た訳ではあるまいし・・・。 第一、早々とロッジに着いて何をしようと言うのだ。 おれ達には合わせる“気”もないし“脚力”もない。
 やや遅れてタド・コシのバッティ(茶屋)に着いた、先に着いた人達はすでにお茶も終っていたのかも知れなかったが・・・。 Tシャツ/合繊の長袖にベストで、行動中は風もあるから丁度良い按配だけれど、屋内では一寸暑い。 昼飯はまだ出来上がってはいないようだった、コック長のダワさんが裏で腕を振るっているのだろう、山に入って初めての昼飯だ。 確かに、こういうスタイルだとトップ着とビリの間に余り時間差があるのは多少問題があるようには思ったが、程度問題だろう。 「ティンモモ?」とか言ったように思うが、そんな料理を戴いた。 「モモ」はギョ−ザだというのだけれど、そんな感じはしない、メリケン粉を練ったような感触で、何とも不思議な味だ。 ピリ辛のグリーンチリソースを付けて・・・お代わりした。 付け合せは、焼ベーコン/蒸したじゃがいもにツナをまぶしたようなもの/生キゥリのスライス。  

               ※   スグレモノのトイレ発見
 店のちょっと下手の板張りの掘立て小屋がトイレだった。  土手のような斜面に建つ高床式の小屋の、床板をクリ抜いただけの極めて原始的な構造だけれどアイデアがある。  小屋内には沢山の“枯れ松葉”が積み上げてあり、終ったらこれを振り撒いてくれとの事、「大」「小」共にだ。  勿論「大」の紙は横に置かれた容器に入れるのが原則だ。  床下はアッパッパだから風通しも良い。  日中の気温も結構高い、何せ此処は日本で言えば奄美大島と同じぐらいの北緯27度強なのだ。  大小の水分もあるからバクテリアか何か知らないが、そんなのがよく働いて分解も早いのだろう。  ニオイも無いし、見た目も清潔だった。  なかなかのスグレモノだと思った。

  ※   悪くなる兆候か?
 14:00頃ラマ僧の僧院で休憩。 先ほどから脚の付け根辺りに違和感を感じている、気になる現象だ。 森井先生の血液循環のクスリと痛み止めは呑んでいるが・・・。 今日は楽な行程なのに、何とかこの位で治まってくれよ、と念じながらであったが、その後は特に悪化することもなかった。 15:00ごろ、予定より早くパクディンに着いた。 ドゥ−ド・コシの川辺の一軒宿みたいだ。 今日歩いた距離は多分8kmばかり、割合平坦なルートだったけれど、それでも明子さんには結構大変だったようだ、明日はカメラもソナムに預けて完全なカラ身になるという、それで良かろう。

※※  今夜の宿、KHUMBU TRAVELLER‘s GUEST HOUSE  PHAKDINGS
 此処は標高2610m、ルクラから大分下った川に近いところだ。 大層な看板と見事な石積みの二階建て、外見はなかなかのロッジだ。 内部は全て板張り。 食堂の真中に薪ストーブがあり、それを囲むように客は長机を挟んで窓際の長いすに座るようになっていて結構暖かい、お茶も食事もここでする。 行程中のその先々のロッジも皆、ほぼこのスタイルであった。 ここら辺りはまだ森林地帯だから燃料になる木はあるが、後日森林限界を越えたシヤンボチェでは貧弱な電気ストーブで寒かったし、高地のタンボチェでは乾燥した“ヤク?”の糞が燃料であった。 但し、何処のロッジも朝はストーブが燃えていなかった。

※   吾がパーティーはインフラを借りるだけのスタイル
 勿論メシを食わせる用意もあるのだろうが、私達は寝袋も食材も一切を持ち込みだ、但し食器は借りるらしい。 二人用3畳ばかりの部屋には木製のベッド、一応マットレスはある。 今日から寝袋生活だ。 この寝袋はこのルート内では夫々個人用で、名札をつけてシェルパが後片付けをして次のロッジへ運んでくれる。
 夕食は18:00から、コック長心ずくしのカレーだった。 じゃがいも/ニンジン主体のカレーに/付け合せのキャベツ/野菜の煮物。 先ずは美味しく戴きました。 今の所食欲は普通。 湯タンポと飲用のお湯を貰って、さぁーて・・・勿論風呂は無い。 暗くなったら寝るしかない。 昔、熱を出した時に氷枕にしたのと同じようなゴム製の湯タンポは、寝袋の足元に入れておくだけで一晩中暖かく快適だった、これもなかなかのスグレモノだ。

※  全ては高山病予防の為です
 今日から風呂もシャワーも無し。 勿論アルコール類も無し。 全ては高山病予防の為だ。 空気が乾燥しているから、特に汗もかいていないし、手間が省けるわい、と負け惜しみみたいな捨てゼリフ。 8:00PM頃には寝袋に入った。 今夜から枕元には必ずヘッドランプを用意しておく事が大事だ。

※   いきなりヤラレタ
 夕方から腹がグルグル鳴っていたが、夜中0:00頃遂にダメ!。  まだ完全な“みず状”では無いが、立派な下痢だ。  早くも坂本先生の4点セットの出番か・・・たまらんな!。  下痢止め/抗生物質/整腸剤/胃薬の4点セットはこの後も何度も出番があって有り難くないアタリであった。
 山に入ったばかりなのに・・・。  “水”には注意していたし、食べ物も「火」を通したものばかりだったと思うけど、昼食時の「生」のキゥリか「?」夕方カジッタ今朝のホテルのリンゴか「?」。  とにかく「ナマ」は止めよう。
 翌朝にはどうにか治まった様子だった。  坂本先生ありがとう。

※   トイレは困りもの
 困りものは、一フロアに一個しかないトイレだ。 一応洋式だけれど、単に“便器”があるというだけ、水もまともに流れない。 ここまではまぁ場所柄仕方ないか!。 そんな事には頓着してないのだろう。 トイレットペーパーは、拭いた横のバケツに入れておく(後でまとめて焼くらしい)のだけれど、ついつい落とし込みそうになって緊張する。 この後も、山の中は全てペーパーは別取り、最近は日本の山小屋でもこの方式があるらしい)。 実は二度ほど間違って落とし、慌てて横にあったブラシのようなもので引き揚げた、習慣というのは容易には変わらないものらしい。 落とし込めば確実に詰まるという話であった。 勿論、出て来てからも手洗いの場所も水も無い、この手でメシを食うのだ。

※   モーニングコール代わりのティ−
朝一にキッチンボーイ等が熱いティ−を持ってきてくれる。 引き続いて洗面器に半分ほどのお湯を運んでくれる。 床に置いて、バシャバシャと顔を洗い手を洗うのだけれど、このお湯だけが 一日で使える水の全てだ。 器用な人はタオルを絞って、背中やあちこちを拭くのだというが、なかなかそうは上手くは行かない。

※  朝は“おかゆ”で
朝にはコック長はお粥を作ってくれた。 ところが、先ず最初に入れてくれる味噌汁を飲んでしまわないとお粥は入れてもらえないのだ。 お椀が一個しかないからだ。 勿論このような食事は私達日本人向けだけで、何とか食べ易いものをと、経験の積み重ねでコック長等が工夫してくれた食スタイルなんだろう。 夫々荷物に入れてきた梅干やカツオ節、ノリなど思い思いの物を入れて食べていたが、私は“フキの佃煮”。

※  歯も磨けない
 部屋にもその周りにも、歯磨きしてクチュクチュした水(勿論ミネラルウオーター)を吐き出す場所もない。 この日は取り敢えず外に出て洗った。  洗面所というものは、ルクラにあったきりで、奥地には無かった。

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