●タニコメ旅日記● |
―― ルクラに戻る日―― ※※ 自分の脚を使う最終行程 街道を歩く最後の日を迎えた。 殆どの人がハラを壊したり、食欲不振だったりするからコック長も困り果てているようだ。 昨日は遂に夜も“おかゆ”を作ってくれて喜んで戴いたのだった。 けれども、昨夕からハラを壊している私は今朝もお粥だけにした。 坂本先生の4点セットとはなかなかオサラバできないでいる。 今朝はタムセルクや、モルゲンロートに輝くクンビラを眺めて最後の山にお別れをした。 8:00モンジョの宿サミットハウスを出発。 ※ 「大キジ」をうった モンジョを出てから何ほども経たない8:30ごろ、長い吊り橋の手前であったが、私のハラは遂に我慢出来なくなり、河原の笹薮の中で「大キジ」を撃ってしまいました。 この場所には何故か先達もいたようで私の他にも紙が散らばっていました。 結局、今朝戴いたものは全部出てしまったのだろう。 ※ 山も里も日本の早春を思わせる風情だ 今日の行程は、歩き始めた3月15日の逆だから朝から暫くは下り、後半はそこそこ長い登りになる。 10:30ごろ、最初の夜泊まったパクデインの庭でお茶。 今日は最高の天気、暑いから半袖でも良いが日陰に入るとヒンヤリするから、やはり長袖だ。 山を下る途中、この辺りの標高2600〜2800mには、鮮やかなシャクナゲが満開であり、沈丁花、モクレンなどが咲き乱れていて日本の早春を思わせる。 ヒマラヤサクラも春の満開の時期を迎えていた(秋にも咲く)。 地面には「さくら草」と思われる花が時々群落をつくって咲いているのが可憐だが、この地に来てこの花以外に地面に咲く花を見かけなかったのは何とも不思議だった。 この痩せて乾いた土地では草花は生きられないのかな「?」。 ※ 後もう少しだけれど・・・足が重くて・・・ 12時丁度、タドコシで昼食。 いい按配に表のテラスが空いたので陽射しの中でお茶、イイ気持だ。 下手にあるアイデアトイレは初めての経験だった、ちょっと山側のシャクナゲが見事だった。 ![]() ここら辺からいよいよ登りになる。 登りになると、途端に明子さんの足は重くなる。 何とやら言う大木の辺りからはルクラは目と鼻の距離なんだけれど・・・。 もう、殆ど夢遊病者のように。 ソナムに助けられながら。 ![]() それでもジワジワと半歩ずつ前へ。 ヤットの思いで辿り着いたルクラの門。 イヤーッ ありがとう!ありがとう!。 間もなく「お別れ」になるソナムとパサン、門を背景に記念写真を撮ったのでした。 ※※ 眼がねの奥は思わず霞んで・・・ 14:40分ルクラに帰着。 『フィ二ッシュ!!』 無事やり遂げた感動に、抱き合った瞬間私の眼がねの奥は思わず霞んでしまったのでした。 明子もよう頑張った!。 辛い登りによく耐えた!。 二人とも立派だった!。 ![]() 4000m近辺の薄い空気の記憶には、この年齢になった私の生涯恐らく二度と遭遇することは無いだろう。 3月15日10:50分に、ここ2804mのルクラを出発してから4100mあたりまで登り降りし、再びこのロッジ前まで帰り着いた今日3月21日14:40分までの間、実に7日と4時間に及ぶハードな山行きであった。 ハードではあったけれど脳裏に焼き付いた、得難い体験だった。 因みに同行の前田氏と貴子さんが計測していたという万歩計の数値の平均値は13万2千歩であった。 登りか下りばかりで平地は殆ど無い状態での歩数だから、これを距離に置き換えるのは難しいが、一応記録しておこう。 なお最高歩数の日は3月19日の25000歩であった。 この日はタンボチェからパンボチェの4100mまでの長いアップダウンを往復後キャンジュマまで降りた日だった。 ※ 森井先生ありがとう 冒頭にも書いたが、今回のトレッキングの成否を左右する条件の一つは「私の腰部脊柱管狭窄症が再発しないこと」だった。 山へ入った最初の日3月15日の午後に、股関節あたりに一寸違和感を感じて先行きを心配したものの、翌日からは何の異常も無く、むしろ標高が上がるに従って快調になった感すらあった。 今ここまで降りてきて、全く痛みを感じる事なくこのハードな行程を終えられたことに嬉しさ一杯であります。 森井先生ありがとう!。 その間の日々はこうでありました。 プロレナールは出発の二日前の3月11日から今日まで継続して一日三回、朝、昼、夜各一錠。 痛み止めは山に入った3月15日から今日まで継続して一日二回、朝、昼各一錠。 シップ薬は3月15日夜から昨夜まで、夜間だけ継続して腰に貼付。 それでも、山を登っていた3月19日辺りまでは、「何時痛みが出るか」という不安は消えない毎日ではありました。 結果的には3月16日以後については、むしろ日本にいた出発前よりも腰周辺の鈍痛や重さを忘れる日々であったと感じています。 ※ 満ち足りた気持でルクラの通りの散策 標高2804mの丘陵の頂上には結構長い大通りがあり、両側にはロッジや店が並んでいる。 一段と高いところには空港の建物や駐機場があり、丘の傾斜を利用した坂道の滑走路がある。 日本で云えば“立山の室堂”のような全体が緩やかな傾斜を持った地形だ。 緩い斜面には民家らしい建物と段々畑が谷底まで続いているようだ。 滑走路先端にあたる側は切り立った崖が谷底へ落ち込んでいる。 二人は満ち足りた気持で夕方の通りの散策を楽しんだ。 明子さんは、お土産にほんの少しだけ“バンダナ”を買った。 私は、この一週間ばかり「ゴロンゴロン」と毎日のように聞いていた“カウベル”を一個だけ買った。 私は何時も特段の土産は買わない。 “土産”はいつも、自分の脳裏に焼き付いており、胸を揺すった感動を持ち帰っている。 特に今度のトレッキングでは大きな感動と、我が肉体の再生を確認出来た満足感を併せて持ち帰ることができる。 ※ お別れパーテイ− 夕食では久し振りのアルコールを戴いた。 ビールは、その名も“エベレストビール”スッキリした味だ、思わず『旨い!』 何日振りだろう?。 3月14日にカトマンズで飲んで以来だ。 その後はもう、果実で造った、やや酸味のある蒸留酒やドブロクのような酒も戴いたが、どれを飲んでも『旨い!』 だけだった。 貴子さんが作ってくれた“おニギリ”も出た『ウマー!』。 コック長は心尽くしの生クリームケーキで完登を祝ってくれた。 明子さんは未だ、高山病を警戒してビールをほんの一寸だけにした。 そうだ、ここは未だ2800mの高地なんだ、十分に高山病の条件はあるな!。嘗て2600mの千畳敷カールで飲んで高山病になったことがあるもんな!。 私はまだ下痢が治った訳では無いけれど、最早ここ迄降りてきたんだから、 「後は何とかなるだろう」みたいな気分で飲んで、久し振りの酔いを楽しんだ。 今夜は3月15日以来行動を共にしてくれたサーダー以下コック長やポータ−達とのお別れの会でもある。 「レッサンピーリーリー」などの歌や踊りに全員で参加し、楽しい懇親の一時を持った。 私達は二人で『エーデルワイスの歌』を唄った。 特に私達の二人のポーターは言葉は十分には伝わらないけれど、『パサン!パニー』『ソナム!プリーズ』と、呼べばキッチリ呼応してくれ、次第に気持の触れ合いが出来てきたようで、嬉しいことであった。 夫々のプライベートポーター達には少しのチップや心ばかりのお土産を手渡し、彼等の明日が明るいように祈りながらルクラの夜は更けて行ったのでした。 とは云っても、夜はまだ8時頃であった |
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