● エッセイ ● |
〔靴下流失事件〕 ここで徹くんの靴下流失事件が起こった。噴水の付近の土手はコンクリートで階段状に作られている。 その階段の上流側の端っこに小さな川が大川に注いであって、そこでコンクリートが切れている。 小さな川口には流れてきた土砂や枯れ枝などがたまっていた。彼は、この土の上に乗ろうとしたのだが 、あいにくそれは固い土のように見えても、下は水分ぐっちょりの底なし沼、恐怖の子供だまし沼で あったのだ。「ワアーッ」とかなんか言いながらすぐに引き返したのであろうが、足首から下は 泥まみれの悲しい”まみれ少年”と化してしまったのだ。少年はドロ靴を脱いで、ドロ靴下も片一方 脱いで清い流れで洗おうとしたのだが、この時、少年の頭にチラと「やべえ、これはおとうとおかあに 叱られる」という意識がかすめた。その瞬間、靴下は少年の手をすべり抜け、大河の急流に飲み込まれて しまったのだ。少年は大急ぎであたりを見回し、一本の枯れ枝を手にして、急流にもまれながら流れていく あわれな靴下を追いかけた。40メートルほどのコンクリートの土手を走り、小さな柳の木が生えた 自然石の河原も、片方はだし、もう片方は靴下で追いかけた。 しかし奮闘空しく靴下は、橋げたの向こうの、もう人が行けない所まで流れて、そして見えなくなって しまった。しばらくボーゼンと流れていった方を見つめていたが、やがてくるりと振り返り肩を落として こちらに向かって歩き始めた。「クソッ」「クソッ」と手にした小枝であたりをたたきながら悔しさを 表していた。顔が分かるほどに近づいてきたとき、少年の目はすでに涙がウルウルとあふれ、口は への字になっていた。そのころ何も知らない妻が近づいてきた。一部始終を見ていた双子の剛と将が 「おかあさん、徹くんが靴下流したあ」と報告。おかあさんはこちらに帰りつつある徹くんに向かって 「流れたものはしかたないでしょお、危ないからはやくこっちにおいでえ」と言った。徹くんが涙を 流すほどに深刻に感じていた罪悪感は、拍子抜けするほどの母親の言葉に救われた、と言っていいのか よく分からないが、流失してしまった靴下は、そんなに高価なものではなかったし、確か足の裏には 大きなツギがあたっていたような気がした。
|
![]() [前頁へ] |
![]() [メニューへ] |
![]() [次頁へ] |