野沢温泉とスキー  
野沢温泉とスキー
 長野県の野沢温泉村は、百年も昔に村づくりに取り組んで現在につないでいる。
 豪雪地といわれ、冬ともなると陸の孤島になる野沢温泉は、このハンディを逆に活かした。
 日本で初めてスキーを学校で教え、スキー場を開設した。降雪時期には陸の孤島になる温泉に、スキーで客の誘致を図ったわけである。
 野沢温泉の名を覚えてもらおうと、どの家庭でも野沢菜を漬け、客をもてなした。今も昔も、絶えず前進する村を見て、町づくりを考えるときのバイブルにしている。
 私が初めて野沢温泉を訪れたのは、スキーを始めた翌年だから昭和37年(1962)と記憶している。いろりを囲んでの珍しい話にも誘われて、その年はスキーに4・5回は通っただろうか。
 旅館や民宿、民家の間を流れる溝川からは、心地よい音が聞こえてくる。どこで水をすくっても飲めそうな、きれいな水が印象的だった。
 「こんなに旅館や民宿が建ち並んでいても水がきれいだね」というと、「水道を引く前に下水道を作ったからな」という答えが返ってきた。このころから、ただ便利な水道だけではなく、下水なしの水道はあり得ない、という考え方だった。
 数年前に、久しぶりに野沢温泉の友を訪ね話を聞いておどろいたことは、ほとんどの家庭に灯油の配管をして、ひねると灯油が出るというもの。この村はやっぱりすごいと思った。
 野沢温泉といえば思い出も多い。
 まだ独りのとき、彼女を連れてスキーに行ったときのことだ。第1リフトはそう長くはないが、37.5度の斜面沿いに一気に登るリフトだ。連休だったからリフトも行列は長い。20分はかかるだろう。
 競技に使われる37.5度を、ガッガッガッと力強く回転しながら滑り降りる、スキーヤーを眺めるのは気持ちの良いもの。リフトの行列は、そんな滑降を暇つぶしに見ている。
 不思議なことに、見ていると自分もやれそうに思う。やれるのだと、そう信じてしまうから始末が悪い。  彼女を列に残して、その斜面を途中まで歩いて登ってみる。最大斜度あたりまで登って、長く延びているリフトの行列を見ると、彼女は半分ほど進んでいたので、10分ほどは登ったのだろう。
 ストックをもった右手を高く挙げ、彼女に合図した。滑るぞっ、見てろっ、っていう合図だ。列のみんなも見ている。いい気分だ。
 「ようし」。左の斜滑降から入り、急斜面を一気にジャンプして、方向転換するに限る。三浦雄一郎のエアターンだ。「サーッ」と滑り出したら....、ん、速い待て、落ち着け。「ドタン」。パッパッパと雪をはらって、また、「ドタン」。立ち上がると、また転ぶ。
 スキーで滑った距離は、延べにして1メートルあっただろうか。三転五転のあとは、背中でリフトの列まで滑り降りてしまった。
 雪をはたいて彼女を見ると、笑っていた。列のみんなも笑っていた。今思えば恥ずかしい思い出も、いつしか懐かしい思い出に変わっている。
 教えられ、いい思い出をつくってくれた野沢温泉。もう一度行ってみたくなった。

(中日新聞・みえ随想 平成6年2月7日掲載) 

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